神の創造性までも似るとは
人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、… (『原理講論』創造原理第5節) |
この中の「神の創造性までも似る」といふ一節が、昔から分かるやうで分からないままできてゐます。神に似て人間が持てる「創造性」とは一体何だらうか。
神ご自身の創造性については疑問の余地がないと思へます。何しろ、この広大無辺な宇宙をゼロから造り上げ、その宇宙は今なほ正確無比の原則に沿つて存在し続けてゐるのですから。
しかし、皮肉にもと言ふべきでせうか。神の創造性が超絶に偉大であればあるほど、人間がその神に似た創造性を持つといふことは有り得なささうに思へてきます。
どうしたら、あるいはどのやうな内容が神に似ることができるのか。それについて未だ明確な答へがある訳ではないのですが、少し考へてみませう。
我々は、それまでになかつた新しいものを作り出すことができます。科学者・技術者はそれまでになかつた新しい機器を考へて作り出す。芸術家は新しい画風を創造し、聞いたことのない新しいメロディを編み出す。
さういふのも確かに人間にしかない素晴らしい創造性には違ひない。しかしそれらが神が受け継がせたい、まさにその創造性かどうか。何かその奥にもつと本質的なものが隠れてゐるやうな気がするのです。
それであるときは、かう考へたこともあります。
我々が持ち得る神に似た創造性とは、自分に似たものを創造する能力ではないか。
聖書の「創世記」に
「神はご自分のかたちに似せて人間を造つた」
といふ趣旨の記述があります。
これは
「神はご自分に似た、ご自分の子ども(神の子)を造つた」
といふことです。
これは宇宙の森羅万象を水も漏らさないほど緻密精密に創造したといふのと、意味が違ふ。森羅万象は環境、子どもはその中に住む喜びの中心です。森羅万象が手段なら、子どもは目的と言つてもいゝ。
だから神はこの創造性を賦与するために、人間が完成するための責任分担過程を置かれた。そして、それを全うしたといふ資格の上で結婚すれば、そこから生まれる子どもをも「神の子」と認定することができる。
これはただ単に生殖能力として子どもを生めるといふことではありません。神がご自分に似せて人間を造つたときに、どれほどの喜びがあつたか。その神の喜びを我々人間もまつたく同型の構造の中で体験する。その立場を与へるといふことです。
神の子を作り出すといふ創造性。
これはこれで、悪くないと思ふ。しかしこれ以外に、もう少し何かありさうな気がしてゐるのです。

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