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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

幸福は私たちを待つてゐません

2021/06/29
訓読三昧 0
文鮮明
マラソン

幸福は常に私たちを待っています。それでも私たちが幸福を探しだすことができない理由は、欲望が行く道を阻むからです。欲に眩(くら)んだ目は前を見ることができません。
たったいま地面に落ちかけた黄金のかけらを拾おうとして、その先にある大きな黄金の山を見ることができず、ポケットに入れることにあくせくし、ポケットが破れたことも分かりません。
(『平和を愛する世界人として』文鮮明

「幸福」と「私」との関係について、文総裁は比喩的な表現で説明されてゐます。ただ、この説明はいささか私の頭を混乱させます。少し整理して見ませう。

「黄金の山」と「私」との間には一定の距離があり、我々はそこに到達するためにその道のりを辿つて行かねばならない。その道すがら、我々は見せかけの幸福(黄金のかけら)についつい気が惹かれて、黄金の山よりもかけらのほうに執着してしまふ。

これはもちろん比喩ですから、
「黄金の山といふ物質が幸福をもたらす」
と言ひたいのではない。

「幸福」は物質ではない。それなら何か。「幸福な状態」とでも言ふべきものでせうか。

仮令さうだとしても、「幸福」といふ状態はあくまでも「私」から一定の距離をもつて離れたところに不動のものとしてあり、その状態になるためには「私」が動いて行かねばならない。さういふイメージを抱かせます。

これをもう少し喩へてみれば、マラソンのゴールに幸福がある。あるいは、深いジャングルか荒漠たる岩山のどこかに幸福が眠つてゐる。

マラソンにせよジャングルにせよ、密かに待つてゐる幸福にたどり着くのは難儀です。たどり着くまでは喉が渇く。足は痛む。虫に刺される。足場が危ない。

さういふ苦労を経て、やつと幸福にたどり着けば、そこで初めて苦労が報われる。ゴールに着くまでの苦痛が大きければ大きいほど、ゴールしたときの幸福感もまた大きい。これは私たちに親しい幸福観でせう。

その幸福観では、人生そのものが長いマラソンに喩へられます。ゴールに向けて必死に走つてゐる最中は、「幸福といふゴール」にまだ到着してゐないのですから、幸福ではない。

さうすると、人生のほとんどは走る辛さの連続です。幸福ではない「今」を耐へながら、いつか到達できる「未来」の幸福を追ひ求める。それが我々の人生の姿といふことになります。

なぜ「未来」の幸福を追ひ求めるのか。それは「今」が幸福ではないからです。「今」私の手元にないものを手に入れようとする。それを「欲望」と言ひます。この「欲望」が「我欲」になつたら「幸福」は手に入らない。それが文総裁の警告です。

それは尤もな警告ですが、文総裁の比喩に、こゝで敢へて異を唱へてみようと思ひます。

即ち、 
幸福は私たちを待つてゐない。幸福はどこか遠くに探し出すものでもない。幸福は今私のポケットにあるので、それをよく見よう
といふふうに。

幸福はゴールで待つてゐるのではない。そもそも私たちがどこかで幸福が待つてゐると考へるのは、「幸福とはどんなものか」をすでに(本性的に)知つてゐるからです。まつたく知らないものを求めるといふことは、原理的にあり得ません。

それなら、幸福をゴール(未来)にだけ求めず、「今」に求めてもいゝはずでせう。それが「今私のポケットにある幸福」です。

「幸福が私たちを待つてゐる」と言ふから、幸福とは私の外側にあつて、私はそれを努力して掴み取らねばならないと考へてしまふ。幸福とは客観的な実体としても状態としても私の外側に存在するものではない。「ポケットの中の幸福」といふ言ひ方の真意は、幸福は純粋に私の内面に存在するといふことです。

だから幸福はどこかで待つてゐるものではなく、それに「気づく」かどうかといふ問題です。

「私は幸福になるために努力してゐます」
といふ言葉はそれを裏返せば、
「私は今幸福ではありません」
といふ意味でせう。

今、ここで幸福であり得るのに、それに気づかず、遠くのゴール、黄金の山だけを見つめて生きてゐるといふことです。

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