台風が直撃しませんやうに
『Rei 出口はいつも入り口にある。』(さとうみつろう)に、かういふエピソードが出てきます。
北海道の小学生たちが修学旅行で北陸にやつて来た。そこへちやうど季節外れの台風が近づいてきたといふ天気予報。明日は兼六園やその他数ヵ所を観光する予定になつてゐるのに、台風なら中止になる。
小学生の1人がツアー・コンダクターのところにやつて来て、
「僕、てるてる坊主を作つた。これを外に吊るさうと思ふんだ」
と言ふので、彼女はそれを制止して、
「外は危ないから、私がやつといてあげる」
と答へる。
そして生徒を励ますつもりで、
「大丈夫、お天気の神様を信じてゐれば台風なんて来ないよ」
と言つて寝かせる。
翌朝。台風直撃。観光は中止になり、1日中ホテルから出られないことになつた。
昨夜の生徒がコンダクターのところにやつて来て、
「お姉さん、ちやんとてるてる坊主吊るしてくれたの?」
「吊るしたよ。でも、君のてるてる坊主のせいぢやなく、神様を信じる私の力が足りなかつたんだと思ふ。ごめんね」
と彼女が謝ると、生徒は思ひがけないことを尋ねる。
「お姉さんは、ちやんとお天気の神様を信じたの?」
「えっ? うん、信じたと思ふ。でも、信じる気持ちが足りなかつたのかな?」
すると、生徒は「さうぢやない」と言ふ。
「お姉さんが信じたのは『お天気の神様』なんでしよ? ぢやあ、今日は『台風』が一番いゝつてことだよ」
さう言つた後、
「よつしや! 今日は1日中ゲームができるぞ!」
と喜びながら、部屋に向かつて駆け出して行つた。
★★★
実話かどうかは分からないが、結構深い人生のヒントがあるなと思ふ。神様に限らず、何かを「信じる」といふとき、我々は一体何を信じてゐるのか、といふことです。
「台風が直撃しませんやうに」
とお天気の神様にお願ひしたとき、ツアー・コンダクターの女性が信じてゐた(と自分が思つてゐた)のは、実はお天気の神様ではなかつた。
「明日は観光巡りが予定されてゐるので、晴天にしてくれるはずの神様」
を信じてゐた。
言ひ換へれば、
「観光には晴れがいゝに決まつてゐるといふ自分の信念」
を信じてゐたのです。
この信念が弱かつたことを「信じる気持ちが足りなかつた」と彼女は考へてゐた。だから願ひに反して台風が来てしまつたと言ひ訳する。
それに対して小学生が指摘したのは、
「信じる対象が違つてゐるんぢやないの?」
といふことです。
「あなたが信じてゐたのは神様ぢやなく、『自分の意見』なんだよ」
と指摘したのです。
もし本当にお天気の神様を信じてゐたなら、今日台風に直撃されたことが「最善」だと信じるはずでせう。なぜなら、「常に最善のことをもたらすのが神様」と信じることが「神様を信じる」ことの内実だから。
ところが、願ひに反した結果を見て、彼女は「おかしい。最善ではない」と思つた。「自分の意見」に合はない結果だから、「おかしい」と思ふのです。
てるてる坊主を吊るして自分なりに晴天を願ふのはいゝ。しかし実際の結果を見てどう考へるか。我々は大抵「何か」を信じて生きてゐるのですが、一体何を信じてゐるのか、それは自分で検証してみる必要があります。

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