「花鳥風月」には嘘がない
養老孟司先生がある講演会の中で、虐めの体験を書いた本を紹介して、
「読んでみると、この中に書いてないことが一つあるのに気がついた」
と言つてゐます。
大体、「在ること」に気づくのは容易でも、「無いこと」に気づくのは難しいものです。先生が「無い」と気づいたのは何か。
「花鳥風月」
体験談の中に、これが一つも出てこないといふのです。どういふことか。
辛かつた、不幸だつたといふ体験のほぼすべてが、人間関係に絡んでゐる。「あの人にこんなことを言はれた」「あんなことをされた」といふことが体験の100%に近いのです。
不幸にしろ幸福にしろ、私たちの日常生活の多くは、確かに人間関係と深く関連してゐるでせう。人間関係が良ければ嬉しいことが多いし、人間関係が悪ければきついことが多い。さういふ人間関係と無縁で生きていくことは不可能です。
しかし、養老先生は
「人にだけ頼ると、あぶねーよ」
と言ふ。
バランスを取ることが重要ではないかと言ふのです。「人間関係」と「花鳥風月」のバランスです。なぜそれが重要でせうか。
この2つの違ひは何か。一言で言へば、「人間関係」には思惑があるが、「花鳥風月」にはそれがない。
「人間関係」では、「好き」と言つても、自分の利益のために言ふのかも知れない。言葉と本音が違つてゐるかも知れない。しかし「花鳥風月」にはさういふ心配がないのです。
「花鳥風月」が
「あなたを好きです」
と言つてくれれば、それを疑ふ余地も必要もない。
「花鳥風月」には思惑がない。言ひ換へれば、「嘘」がないといふことです。
ずいぶん昔のことですが、ある日出かけようとしたときに、庭に咲くバラが突然話しかけてきたことがあります。
「わたし、きれいでしよ」
と言ふのです。びつくりしました。
さう言へば、ふだん意識して見てやることがなかつたなと思ひ、しばらくぢつと眺めて、いよいよ出かけようとすると、今度は
「行つてらつしやい」
と見送つてくれる。
家族に言つてもらふのも嬉しいけれど、バラが言つてくれると違ふ感慨があります。「花鳥風月」の良さだなと思ふ。
思惑のない世界に抱かれる。さういふ時間と体験が生活の中に何割か織り込まれる。やはり養老先生の言ふやうなバランスがあるのがいゝなと思ふ。

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