山は焼かないほうがいゝですよ
先日、親しい知人の誘ひで昼食を食べながらいろいろ話をした。雑談に終はつたなと思ふ。知人はそんなことで満足したかどうか判らないが、私はその雑談が楽しかつた。
AI技術が進んできてはゐるものの、少なくとも今のところ、雑談はAIにはできない。人間だけが堪能できる、極めて高度な楽しみだと思ふ。
AIになぜ雑談ができないかといふと、雑談では先が読めない。私がかう言つたら、相手がどう返すか。予測がつかない。その予測がつかないところがしかし、雑談の最も高度で、また面白みのあるところなのです。
雑談とは、文字通り、雑なる話。話題は何でもあり。制約は何もない。だから誰でもできるのが雑談とも言へるが、瓢箪から駒が出るかどうかは、やはり雑談をする人の質にも大いにかかつてゐる。
私が雑談の凄さを初めて思ひ知つたのは、多分『人間の建設』だらうと思ふ。この雑談に顔を合はせたのは、評論家・小林秀雄と数学者・岡潔の2人。
本の帯には、
「有体に言えば雑談である。しかし並の雑談ではない」
と謳つてある。
この雑談の段取りは出版社が担当したには違ひないが、企画の発端は小林にあつた。小林が岡の随筆を読んで、これは是非一度会つて話を聞いてみたいと思つたのが、ことの始まりです。
おそらくは最寄りの駅で落ち合ひ、そこから近くの料亭までタクシーか何かで移動した。2人の雑談はすでにそのタクシーの中から始まつてゐる。
ところが活字になつた雑談は、料亭の一室に2人が相向かひあつたところから始まつたことになつてゐる。
小林 今日は大文字の山焼きがある日だそうですね。ここの家からも見えると言ってました。 岡 私はああいう人為的なものには、あまり興味がありません。小林さん、山はやっぱり焼かないほうがいいですよ。 小林 ごもっともです。わたしはいっぺんお目にかかってお話を伺いたいと思っていたので、出向いたわけです。雑誌屋さんは速記をとると言っていますが、これはまあ雑誌屋さんの別個の考えです。 |
この雑談を本にするかどうかに大した興味はない。相手の話を聞いてみたいといふのが、已むに已まれぬ小林の興味だつたのです。
京都では毎年お盆の頃に、大文字の山焼きが行はれる。季節はちやうどその頃だつたので、小林はその話題を枕に振つてみる。たんに聞いた話を伝へるだけのやうに見えながら、実は小林には直観的な狙ひがあつたとも思へる。
「山焼き」の話を振れば、岡はきつと「山なんか焼かないほうがいゝ」と反応するのではないか。岡の随筆を読み込めば、頭の良い小林のこと、それくらゐの推量は容易に働いたでせう。
すると、岡は小林の推量通りの反応をする。これはまた、岡なりに小林の意図を酌んだ反応だつたかも知れない。
まあそんなふうに始まつて、そこから後の2人の雑談は融通無碍に展開していく。まさに「並みの雑談ではない」のです。
『人間の建設』は本にすれば文庫本で150ページ。本としては薄いが、雑談としてはかなり長い。長い雑談だが、その筋はかなりはつきりと通つてゐる。岡が最初に言つた「小林さん、山はやっぱり焼かないほうがいいですよ」といふ一言が、この雑談の初めであり終はりになつてゐるのです。
「山を(大の字に)焼くといふ人為」
これに岡はあまり興味がないといふ。こんなことにはあまり価値がないし、人間にとつて良いこととも思はれない。この感覚が雑談の底をづつと流れてゐます。
だから雑談の最後のほうで、この人為に関連して、
「教育の基礎は素読ではないか」
といふことで2人の話が合ふのです。
昔の寺子屋では、この素読を徹底的に反復させた。例へば『論語』。例へば『万葉集』。
これらの古典は、その意味を教へる必要がないし、教へるべきでもない。それよりも小林は、
「すがたに親しませるべきだ」
と言ふのです。
ところが今の教育は、「すがた」を崩して(分かり易い現代語に直して)「意味」を教へようとする。しかし教へようとするその「意味」は本当に正しいのか。間違つてはゐないとしても、他の「意味」はないのか。あるいは、今は分からないが、歳を取るにつれて分かつてくるやうな「意味」もあるのではないか。
だから教育の基礎は、「徹底的にすがたに親しませることだ」と言ふのです。
人為はすぐに「結果」を求めたり、「答へ」を一つに限定したりしようとする。しかしものの本質が分かつてくるには時間もかかるし、人の「答へ」と自分の「答へ」は違つてゐるかも知れない。
「人生の目的はかうだ」
といふやうに最初に人生の意味と答へを設定するのも、ある意味の「人為」ではないか。さういふ気もする。

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