お父さんは、僕のことが大好きだからな
昨日は父の日だつたが、それに先立つ数日前、娘が会社の休みを取つて買ひ物に誘つてくれた。父の日のプレゼントをしてくれるといふのです。
地元には大きなモールもないから、車でわざわざ2時間以上かかる遠出と相成つた。その道々、娘が運転しながら、こんなことを話してくれる。
「この前、お兄ちやんと話したのよ」
息子は今、東京にゐる。コロナ禍で1年以上帰つて来れてゐない。ラインででも話したのだらう。
「お兄ちやんがね、『お父さんは、僕のことが大好きだからな』つて言ふのよ」
その言葉を聞いて、数秒考へ、
「さうだね。間違ひない」
と相槌を打つた。
打つた後で、またしばらく心の中で思ひを巡らせた。
娘と息子との会話のどんな流れで、その言葉が出たのか。それは分からない。それにしても、息子は、私のどんな行動、どんな態度をもつて、そんな確信を抱いてゐるのか。
振り返ると、私なりに思ひ当たることがないでもない。しかしその一方で、ずいぶん息子の心を傷つけたこともあつたと思ふ。それでもなほ、どうしてそんなふうに言つてくれるのだらう。
それに、考へてみると、ふつうなら
「僕はお父さんのことが大好きだ」
と言ひさうなものだ。
自分の気持ちは自分が一番知つてゐる。だから、「自分はどうだ」といふのなら分かる。ところが息子は、自分の気持ちではなく、父親の自分に対する気持ちを言つてゐる。
「大好きだからな」とはどういふことだらう。この言ひ方は「愛してくれてゐるからな」とは明らかに違ふ。
「愛してゐる」といふのは、相手に対していろいろ難しい感情があつても、それを超えて「愛さうと努力してゐる」といふニュアンスを感じさせる。それに対して「大好きだ」といふのは、努力がない。
息子には父親が大好きになつてくれるだけの何らかの「好ましい要素」がある。そのことに息子は自信を持つてゐる。「お父さんは自分のことを好きにならざるを得ないんだ」といふニュアンスがある。
「愛されてゐる」といふより、よほど率直でストレートな感性だと思ふ。
さう考へると、私は何だか息子が羨ましい気がしてくる。どうしてそんな自信を持てるんだらう。
親が子どもを愛するのは、何も特別なことではあるまい。しかし、親がいくら「私はお前を愛してゐる」と主張しても、もし息子が「僕はその愛を感じない」と言へば、親の主張は力を持つだらうか。
愛するといふのは、愛する主体が主張することではない。愛される対象が「愛されてゐる」と認めてこそ、初めて有効になるものでせう。
そんなふうに考へていくと、私は息子に認めてもらつて、多少父親としての立つ瀬があるなあと思ふ。ちょつと安堵する。父の日に息子からのプレゼントかな。
一方、娘は
「お父さんは私のことも大好きだよね」
と言つてくれるかどうか。それは確認してゐない。娘が買つてくれた服は毎日着てゐる。

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