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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

君はまだ抱いてゐたのか?

2021/06/16
思索三昧 0
禅僧

2人の禅僧の逸話があります。一方を僧A、他方を僧Bとしませう。

2人は豪雨のあと、ひどくぬかるんだ田舎道を歩いてゐた。ある村の近くまで来ると、1人の若い娘に出会つた。

娘は道を渡らうとするが、水たまりが深くてなかなか渡れないでゐる。そこで僧Aはすぐに娘をさつと抱き上げて、水たまりを渡してやつた。

そのあと、2人の僧は村を過ぎて黙々と歩き続けた。5時間ほどもたつた頃、夜の宿になる寺が見えてきた。そのとき、僧Bがたまりきれなくなつたやうに、僧Aにかう言つたのです。

「あなたはどうしてあの娘を抱き上げて、道を渡してやつたのか? 僧としては、あゝいふことをすべきではなかつたと思ふが」

すると、僧Aは淡々と答へた。
「私はもうとつくにあの娘を下ろしたのに、君はまだ抱いてゐたのか?」

実際に若い娘を抱き上げたのは僧Aです。彼は水たまりで娘を抱き上げ、道を渡るとすぐにおろした。ところが、実際には娘を抱き上げてゐない僧Bのほうが、5時間近くも抱き続けてゐたといふのです。

独身主義を通す昔の僧にとつて、若い娘の柔らかな肉感は最高の誘惑の一つに違ひない。僧Aはその娘を実際に抱き上げたが、おろしてしまふと、そのことを忘れた。一方の僧Bは5時間近くも「若い娘」といふ妄想から離れられなかつたのです。

我々も往々にして、僧Bになると思ふ。

ある出来事に遭遇したとき、嬉しいにしろ辛いにしろ、抱いた感情がある。それはふつうのことです。ところが、その感情をいつまでたつても忘れることができない。「思ひを引きずる」のです。ここに僧Bが抱えてゐたのと共通の問題があります。

僧Bは娘の代はりに、「思ひ」を抱き続けてゐた。それに対して、僧Aは娘を抱いておろすと同時に「思ひ」もおろしたのです。

出来事に遭遇したときには抱く感情があつたとしても、僧Aはそれをすぐに手放した。よほど修業の進んだ高僧と見えます。

修業の行き届かない凡夫たる我が身において、「過去の思ひ」に支配されないといふのは至難の業です。どうしたらいいでせうか。

自分の過去を振り返つてみると、どうしても手放せない記憶(特に痛みの記憶)がいくつもあるものです。

「あのとき、あの人に、あんなふうにされた」
「あのとき、あの人に、あんなふうに言はれた」

さういふ体験の記憶と、そのときに自分が抱いた感情が自分の中に消えずに残つてゐます。そしてその記憶を誘発させる「あの人」は、いつまでたつても、私にとつて「特別な人」です。

「特別の人」だから、どんなに多くの人の中にゐても、「あの人」は即座に目についてしまふ。「あの人」にだけスポットライトが当たつてゐるかのやうです。

できれば目を合はせたくない、口をききたくない。かういふ思ひが、僧Bのやうに5時間どころか、5年でも10年でも続くことがある。

僧Aのやうに、記憶から自由になるにはどうしたらいいでせうか。

出来事に遭遇したときに自分が抱いた感情があります。その過去の感情について、改めて3つのステップを踏んでみます。

① その感情ときちんと向き合ふ
② その感情を受け容れる
③ その感情を手放す

ここで取り扱ふのはあくまで「自分の感情」であつて、「あの人」ではない。感情は自分の中にあるものですから、この作業はすべて自分の中で遂行され完結するものです。「あの人がどうだつた」などと考へる必要もないし、考へるべきでもない。

ステップを踏んでみようとすると、どうでせう。①②③と進むにつれて、自分の中で「抵抗感」が強まつてくるのを感じます。

特に最後。「手放す」ことがなかなかできない。拳をぎゅつと固く握りしめてゐるかのやうです。

「これまでづつと持ち続けてきたものを、どうして今簡単に手放せるものか」
といふ思ひが抵抗勢力となつて現れてきます。

しかし手放せないと、これからもづつと僧Bとして生き続けるしかありません。

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