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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

自己認識を変へてみる

2021/06/15
思索三昧 0
原理講論
催眠術

私自身は催眠術といふものをかけてもらつたことはないが、催眠状態になると、例へば、かういふことが起こるらしい。

催眠術をかけておいて、その手に割り箸を押しつける。そのとき、
「はい、これからあなたの手に焼けた箸を押しつけますよ」
と告げるのです。

すると、催眠術にかかつてゐる人は
「ぎゃっ、熱い!」
と叫んで催眠術から目を覚ます。

目が覚めた後、
「あゝ、熱かつた。一体何を押しつけたの?」
と聞くので、
「何でもない。ふつうの箸だよ」

「ほんとに!? すごく熱かつたけどなあ」
と本人は腑に落ちない。

ところがしばらくすると、箸を押しつけたところに見る見る火ぶくれができてくるのです。

これと似てゐるものに「偽薬」といふものがあります。

白衣を着たお医者さんがやつて来て、
「これ、よく効く薬です」
と言つて、小麦粉を飲ませる。

すると、小麦粉が7割の人に薬効を現すのです。

逆に、特段どこも悪くはないのに、本人が「なんだか変だ」と気に病んでゐると、本当に具合が悪くなる。「病は気から」と言はれる現象です。

かういふ現象をどう理解したらいいのでせうか。

心と体はまつたくの別ものではない。どこかで繋がつてゐる。そのやうな推測はできます。

それを『原理講論』では、
形状は第二の性相である。性相は形状化する
と表現してゐます。

ここをもう少し掘り下げてみると、心と体との間に「認識」といふ橋渡しがあると考へられます。

催眠術の例で言へば、実物はふつうの箸であるのに、「焼けた箸である」といふ「認識」を作り出す。催眠術はさういふ「嘘の認識」を本人に与へる訳でせう。

すると本人は、その「嘘の認識」に従つて体と繋がる。このときの体は、本物の体ではありません。自分の意識が再構成した意識世界の中の体です。

意識世界の中の体は意識の思ふがままに変容しますから、
「今、熱い箸が押しつけられてゐる」
と認識すれば、その体はその認識に反応する。そして、意識世界の中の体の症状が実際の体の現象として現れるやうになる。このやうにして「性相が形状化」します。

つまり、心と体とは「意識世界の体」を介して間接的に繋がつてゐる。この仕組みは、偽薬が効く件でも、病は気からの件でも、同じやうに機能します。

これをもう少し一般化して考へると、我々は外側の世界を直接には体験してゐない、と思はれてきます。我々が外側の世界の現象を受け取るときには、必ず「自分の認識」といふフィルターを通過させてゐる。つまり、我々はつねにそのフィルターを通して世界を見てゐる(体験してゐる)といふことです。

例へば、今日いろいろな出来事があつて、私の気分はとても落ち込んでゐるとします。しかし実際に「私を落ち込ませる出来事」が起つたのではない。出来事は基本的にすべてニュートラルなものです。

ところが、「かういふ出来事は嫌だ」といふ私の「認識」が、「ニュートラルな出来事」を「嫌な出来事」に変換してしまふのです。

そこで、かういふ試みが考へられます。

嫌なこと、辛いことがあつたとき、
私は嫌なことが起こると気分が良い。嬉しくて、元気が出る
といふ「自己認識」を作つてみるのです。

この「自己認識」は一見するといかにも変だが、根拠がなくはない。『原理講論』の「復活論」にある「悪霊の再臨復活現象」です。

地上人の罪を清算させるために、神は悪霊を使ふ。その作用によつて地上人に苦痛が起つたとき、彼がそれを「甘受」すれば、それを蕩減条件として地上人の罪ばかりでなく、悪霊の罪までも清算したと見做す。

これを根拠として、
「苦痛が起こつたときは、それを『甘受』するのが最善の対処方法だ。だから私は嬉しい」
といふ「自己認識」を構築してみようといふ訳です。

しかしこれは容易ではない。催眠術のやうにはいかない。

「嫌なことがあると気分が悪い。すぐに反撃したくなる」
といふのが、デフォルトの意識として我々の中にプリセットされてゐるやうです。このデフォルトを変更するには、絶え間ない自覚的な繰り返しが要求されます。

それでも自覚があれば、「自己認識」には必ず変化が起こる。これは私の実感です。

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