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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

この世には「色」も「音」もない

2021/06/11
思索三昧 0
色と音

私が実際に生きてゐる世界はこの世なのかどうか。それについて最近考へることを記します。

夕焼け空は茜色。陽が傾くと、西の空が暗赤色に染まる。天候が怪しくなると、天からゴロゴロといふ不気味な音が響いてくる。ピカッと光ると、とたんにドカーンといふ大音声が天地を震はす。

この世には夕焼けの赤といふ「色」があるし、雷鳴といふ「音」がある。我々はふつうさう思つて生きてゐます。

しかし本当にこの世には「色」や「音」があるのか。そもそも、「色」とか「音」などといふのは、一体何なのか。

陽が傾くと、なぜ西の空が赤くなるか。それは科学的に説明できる。

光の中には波長の幅がある。光の波長の違ひによつて、波長の短い青系は地上に届くまでにほとんど霧散してしまふ。波長の長い赤系が生き残るために、地上から眺めれば夕焼けは赤く見える。

なるほど、さういふことか。納得できるやうな気になります。しかし、実は分からないことがあるのです。

「波長の長い光を、我々はなぜ『赤』だと感じるのか」
といふことです。

「赤」といふ言葉が表すものの本質は何でせうか。

「波長が大体600~700nmの光が『赤』ですよ」
と言われて「赤」の本質が分かるでせうか。


色相

科学がいくら現象を解明していつても、「それをなぜ赤と感じるか」は、遂に説明できない。

雷鳴も同様です。雷は空気を震はせて、その振動が耳の鼓膜に届き、それが雷の音として聞こえる。

「空気の振動が『音』ですよ。音量が大きいのは、振幅が大きいからですよ」
と科学は教へてくれる。

しかしそれではやはり、雷鳴の本質が分かつたとは思へない。

この世には「色」も「音」もない。私はさう思ふ。この世には波長の異なる光の幅があるだけであり、振動数、振幅、波形の違ふ空気の振動があるだけです。科学はそれらを解明できる。

しかし、その波長がなぜ赤でなければならないのか、その振動数がなぜゴロゴロと聞こえるのか。それを科学は説明できない。

この世には「夕焼けの赤」もないし、「雷鳴のゴロゴロ」もない。それならなぜ、我々は「この世界は色に満ちてゐる、さまざまな音がある」と思つてゐるのか。

光の波や空気の振動を目や耳で受信する。受信した情報を電気信号にして脳に伝へる。伝はつた信号を脳は特定の部位で何かに変換する。

我々が観測し分析できるのは、ここまでです。特定の信号がどのやうに変換され、変換された「何か」をなぜ「赤」と認識するのか。そこは分からない。

しかしともかく、赤く焼けた西の空を眺めて、我々は引き込まれ、うつとりする。そして、「今日1日仕事で疲れたけど、良い1日だつたな」といふやうな感慨にふけるのです。

さういふ体験は、この世とは違ふもう一つ別の世界でしてゐる。その体験をしてゐる主体を「意識」と私は呼びます。

夕日が赤く見え、雷鳴がゴロゴロと聞こえるのは、この「意識」の世界です。この世界は、「意識」が認識できるやうに、この世の現象を再構成した世界です。

この世界にあるのは、色や音ばかりではない。「愛」とか「嬉しい」とか「豊かな生活」とか「人生の目的」など、我々があると思つてゐるものは何でも揃つてゐます。

我々がこの世に生きてゐるとき、肉身と霊人体の二重体だと言ひます。「この世」と「意識の世界」に符合させるなら、肉身は「この世」に生きており、霊人体は「意識の世界」に生きてゐる。

二重構造

「この世」には無数の現象があるだけです。私の「肉身」もその中の一つです。

「意識の世界」には、私の「肉身」も再構成されて存在する。だからこの「肉身」は、私に気がかりなことがあると胃がキリキリと痛んだりもするのです。

「この世」は現象の集まりですが、「意識の世界」には明確な中心がある。「意識」がその中心です。

「意識」が「意識の世界」のあらゆるものを見たり感じたりする究極にして唯一の主体です。「意識」が「夕日は赤い」とか「雷鳴は轟く」などと認識する。

しかし「意識」は対象を認識するけれども、認識の対象にはならない。「意識」を認識する何ものもない。だから「意識」は深い謎です。あることは疑ひないが、何者なのかは分からない。

もしかすると、「生心」がどんなものかよく分からないことと通じてゐるかも知れない。

我々はこの世に生きている間、「意識の世界」で愛の喜びにせよ、思ひ通りにならない苦痛にせよ、あらゆるものを体験する。その体験はそつくりそのまま、永遠のあの世、霊界に持つて行くやうになつてゐる。

なぜなら、聞くところによれば、霊界では私が願ふやうな世界が現れるといふ。私の心次第で私の姿が変化するだけでなく、相手の姿も変化する。まさに非常に純度の高い「意識の世界」だと思はれるのです。

この世でどんな出来事にぶつかり、どんな人と出会つたかは本質的な問題ではない。「意識の世界」でその出来事、その人をどのやうに「私といふ意識」が認識し、感受し、再構成したかが問題なのです。

この世では「世界の中の私」と感じるのに対して、「意識の世界」では「私の中の世界」と感じる。「私の中の世界」においては、起こるすべてのことの責任は究極的に「私」にしかないのです。

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なるほど、養老孟司2

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