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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

こんな僕でも、愛してくれるよね

2021/06/08
生活日記 0
こんな僕でも

祝福の子女(二世、三世)は、ある意味で「新人類」と呼んでもいゝでせうか。見た目では旧人類と区別はできないが、目に見えない内面がかなり違ふ可能性があります。それらしく言へば、細胞のDNAに何らかの変化が起こつてゐるかも知れない。

 

教会では「原理」と「信仰」が強調される。だから新人類の教育においてもその2つが持ち込まれ、

「原理教育と信仰教育が重要だ」

と考へられてきた。

 

しかしこれには一長一短があつたなと思ふ。改めて思つたきつかけは、知人から送られてきた座談会の映像にある。

 

座談会の司会は子女教育の専門家。その他に、40年あまり子女教育に携はつてきた幼稚園の副園長と2人の父母。

 

話を聞きながら

「ずいぶんな遠回りをしてきたんだなあ」

といふ感慨を私は抱いた。さう感じた理由を記してみます。

 

幼稚園には最初、新人類を育てるためのマニュアルがなかつた。新人類を初めて育ててみるのだから、ないのは当然です。

 

マニュアルがないから、実際に世話をしてみながら試行錯誤する。その試行錯誤の中からだんだんとマニュアルが出来上がつてきた。どんなマニュアルを作ればいゝか、それを教へてくれたのは幼い新人類たちだつたといふ。

 

世話をしながら彼らに接すると、実際目の前の新人類たちはあまりにも手に負へない。神の子がなぜこんなに暴れるのかと呆れる。物は投げるし、喧嘩もする。宥めようとしても、言ふことを聞かない。

 

「新人類は神の子のはずなのに」と思ふ。養育の現場で、新人類の姿について、「信仰で期待してゐた姿」と「日常に現れる実体」とが大きな齟齬をきたしたのです。それで園の先生たちは大いに葛藤した。

 

「神の子なのに、神の子のくせに、なんだ、その振る舞ひは!」

と、目の前の子どもたちを折檻してやりたいぐらゐの気持ちになる。

 

そこで、これを是正するにはやはり「原理」と「信仰」の教育が必要だと考へる。自分たちもこの2つで教育されてきたのだから。

 

しかしよくよく観察すると、子どもたちは悪いことをしてゐるのではなくて、自分の中にあるものを何でも出してゐるに過ぎないやうに見える。

 

何でも出しておいて、その上で

こんな僕だけど、何か文句ある? こんな僕でも、愛してくれるよね?

と問ひかけてゐるやうに見える。

 

もちろん、幼い子どもだから、そんなことを言葉で表現するわけではない。しかし悪い(と思へる)ことをしておきながら、先生の首に抱きついてくる振る舞ひを見ると、彼らは「自分が愛されるべき存在だ」といふことに何の疑ひも持つてゐない。自分の生の原点を確実に知つてゐる。

 

これは、原理をよく学んだとか、信仰的だとか、さういふ後づけの理屈ではない。観念ではないのです。

 

副園長のかういふ話を聞いてゐると、なるほどと思ふ。

 

旧人類は、だいたい「頭」から入る。「頭」は前頭葉を中心とした「観念」と言つてもいゝ。

 

頭で考へると、

「祝福の子女は神の子だから善であるはずだ」

といふ観念が私の思考と行動を支配する。

 

しかし新人類(特に三世)は、そこが何か大きく違ふのです。

 

彼らは幼いうちに、自分の中にあるすべてのものを出し尽くさうとするのではないか。大人の目には「悪い」と見えるものも、実は悪いものではない。良いものでも悪いものでもない。ただ彼らが自己の本質を表出しようとするときに、必然的に溢れ出てくるものなのだと思ふ。

 

一見粗暴で傍若無人な彼らの振る舞ひは、実は成長しようとする彼らの生き方そのものなのだ。話を聞いてゐて、私はそんな気がした。

 

ところが、旧人類たる大人たちは前頭葉の信仰観念の基準で「これは良いけど、これは悪い」と判断する。そして好い(と思へる)ものは認めて、悪い(と思へる)ものは否定する。さうすると新人類たちの中に強い葛藤が起こる。

 

「どうして僕たちの本質全部を丸ごと受け取つてくれないのか?」

と思ふ。思ふけれどもうまく言葉にできないので、余計に葛藤する。

 

新人類が見せた姿の真実は、かういふことだつたのではないか。園の先生がたでさへ、自分の観念を転換するのに数十年かかつた。「ずいぶん遠回りをしたんだなあ」と私が思つたのは、このことです。

 

信仰といふ観念があるがために、それが邪魔をして却つて「人間の中の神性は何か」といふことを見誤る。といふか、見抜けない。

 

しかし分かつてみると、新人類の教育は特別のことではなかつた。「信仰を持つた善なる人間にしなくては」と一生懸命だつたが、それは善悪を基準とする教育です。

 

新人類が求めてゐたのは単なる善悪の教育ではない。「こんな僕でも、愛してくれるよね?」といふことだつた。家庭でできる普通の会話であり、愛してほしいときに愛してもらへる普通の親子関係だつたのです。

 

先生がたは新人類の本質とその可能性に気づくまで、ずいぶんご苦労されたと思ふ。私自身は、自分の子どもについてそこまで深くは悟れなかつた。その気づきのエキスを今端的に教へてもらへるのは、とても貴重で有り難いことです。

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なるほど、池田晶子2

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