お母さんだつたね、あのホタル…
娘と買ひ物に出かけた帰り道、娘が運転しながら
「昨夜、ちょつとしたことがあつたのよ」
と話し始める。
大学時代、4年生になつて卒論も仕上がり、いよいよ最後の教官査定が始まるといふ頃になつて、突然姿を消した1人の友だちがゐる。就職先も内定してゐたのに、卒業もせずに行方知れずになつた。
すぐにLINEをしたが、いつまで経つても既読にもならない。以来2年余り、ときどき思ひ出しては「どうしてゐるかなあ」と心配してゐた。
昨夜、昔の手紙を整理してゐると、その友人の手紙が出てきた。改めて思ひ出して、久しぶりにLINEしてみた。すると、意外にも返事が返つてきたといふのです。
「東京で仕事をしてるつて。ほんとに安心した」
その話を聞きながら、私にも言ひたいことが一つ思ひ浮かんだ。
「実は、お父さんも昨夜、寝てゐるときにおかしなことがあつたんだよ」
「へえ、どんなこと?」
実はね…
昨夜洋間ですべての灯りを消して寝ようとしたとき、頭の上のほうをゆつくりと旋回する小さな光がある。何だらうと思つて目を凝らすと、どうもホタルだ。
川からも遠い、こんな部屋の中に、どうしてホタルが1匹だけ迷ひ込んだのか。窓も換気のためにほんのわづか開けてゐるに過ぎない。そんな狭い隙間から入つてきたんだらうか。それとも昼間の内に入つて来て、どこかに潜んでゐたんだらうか。
「不思議ねえ…」
と娘も首をかしげる。
その刹那、それまで思ひもしなかつたアイデアが、私の頭に閃いたのです。
「お母さんだつたね、あのホタル …」
夜中に迷ひ込んで、私の頭の上をゆらゆらと飛び回つてゐたのは、私の妻だつた。
「お父さん、よくそんなこと連想するね」
「さうだね。単なる連想かも知れない。でも、あさつてが6月8日だろ」
「ほんとだ。お母さんの命日」
ちやうど20年前の5月末、私はまだ幼い2人の子どもを連れて、近くの川へホタル狩りに出かけた。その年はホタルの当たり年で、川に沿つて数へきれないほのかな灯りが舞つてゐた。
子どもたちは大喜びで、手の届くホタルを捕まへてはビニール袋に放り込む。
「お母さんに見せたら、喜ぶよ」
子どもたちが歓喜して持ち帰つたホタルを見て、妻がどんな反応を見せたか。今はあまりはつきりと思ひ出せない。
それからわづか10日も経たないうちに、妻は聖和(他界)したのです。
「あんなに急に死ぬなんて、思つてもゐなかつたよね」
と娘はつぶやく。
今年も5月末に、娘と2人で少し離れたホタルの名所に行つてみたのです。何匹か捕まへてみたものの、持ち帰つて見せる人はゐない。その場ですべて放して、今年のホタル狩りは終はつた。
「娘と一緒にホタル狩りに行くのも、今年が最後になるかもなあ」
と、少し寂しく思つたりしてゐた。
すると昨夜、私の寝所にホタルが1匹迷ひ込んできたのです。
しかしそのときは、
「妻が訪ねてきた」
といふアイデアなど閃きもしないまま、寝入つてしまつた。
娘が昨夜の話をしてくれたのは、
「あなた、どうして気がつかないの?」
と、妻がじれて、娘の話を呼び水に使つたのかも知れない。
小林秀雄は彼の母親が亡くなつた数日後、蝋燭を買ひに出た夜道で1匹のホタルに出会つた。その瞬間、彼は
「おつかさんが、飛んでゐる」
と思つたと書いてゐる。
彼に比べると、私はよほど鈍い男のやうです。妻も気苦労が多からう。

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