まるで宗教指導者みたい
2週間ほど前ですが、国際政治学者の三浦瑠璃さんが尾身会長を評して
「まるで宗教指導者みたい。科学者らしくない」
と発言したことがある。
尾身会長とは、言ふまでもなく、目下国家的に重要な役割を担ふ「新型コロナウイルス感染症対策分科会」の会長。同氏は医科大学院を出た医学者であり、世界保健機関の感染症対策部長を務めた前歴もある。
今回会長に任じられたのも、その専門性や経歴を買はれてのことでせう。ところが今回の会長としての働きに対して、三浦さんが「宗教指導者みたい」と評したのです。
5月いつぱいが期限だつた緊急事態宣言が解除されるかどうかに注目が集まる中、17日に尾身会長は慎重なコメントを発表した。
「すぐに解除の誘惑に駆られる。そこを我慢することが次の光につながる」
これに対して三浦さんは
「あまり精神論的、抽象的なことは言はないほうがいゝと思ふ。尾身さんの発言は『宗教指導者』のやうなもので、解釈のしやうがない」
と論評したのです。
ここでどうして「宗教指導者」が出てくるのか。私はそのことがづつと引つ掛かつてゐたのです。
この「宗教指導者」は、もちろん良い意味で持ち出された譬へではない。重要な決定を責任を持つてすべきときに、単なる「精神論」を「抽象的」に言ふだけの、現実にはほとんど役に立たない人。それがここで持ち出された「宗教指導者」なのです。
しかもこの三浦さんの発言を支持する複数の論者が、「宗教指導者」をみな同じやうな意味合ひで使ふ。しかも「宗教指導者」=「現実世界で無能な人」といふ等式がごく当然であるかのやうに。
この等式に対して、今の日本では真つ向から反論する人が出ない。出ないばかりか、それを疑問に思ふ人もゐない(やうに見える)。
現今のコロナ禍にどう対処したらいいのか。それについて実際「宗教指導者」の立場から社会に向けて発言した人を、私は寡聞にして知らない。マスコミもさういふ人を積極的には登場させないやうに見える。
現在、コロナ禍に対処する主要な人たちは、「精神論」ではなく「具体論」を、「抽象的」にではなく「具体的、科学的」に言ふべき人たちです。
「内」と「外」で言へば、この人たちは「外」を代表する人たちです。今はこの「外の人」たちが、コロナ禍の前線で奮闘してゐる。いろいろな批判はあつても、中心的な役割を担つてゐることは事実です。
さういふ現状で、「内」即ち我々一人一人の「意識」と「霊人体」を担当すべき人たち、これが三浦さんに揶揄される「宗教指導者」なのですが、この人たちは本当に何もしなくていゝのか。果たすべき役割はないのか。
今の状況で「精神論」や「抽象論」では、確かに馬鹿にされるだけでせう。実際、ほとんど役には立たない。
どこかの宗教指導者が現れて、
「信仰を強く持てば、ウイルスも近寄れない」
と言へば、そのメッセージはその教団の信仰的な人たちにはそれなりに届くかも知れない。しかし、社会全体としては「非常識」と言はれて、一顧だにされないでせう。
お釈迦様もイエス様も、ウイルスにどう対処すべきか、具体的なことは教へておられない。
「〇〇様は、このやうに言はれました。それを信じて正しく生きていけば大丈夫です」
といふやうな権威依拠型の説教では世の中を変革する力を持てない。
かと言つて、「外の人」にはできないことがあるのではないか。それは何だらう。

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