詠嘆と言葉の間
昨日観たNHK番組「ニッポン印象派・芭蕉の見た光」が、タイトル通りとても印象的だつた。
松尾芭蕉は元禄2年(1689年)春3月の終はりに江戸を発つ。足はみちのくへ向ふ。この年はちやうど西行の没後500年に当たる。
芭蕉は曾良を伴ひ、要所要所で俳句を詠む。ところが、番組の中で芭蕉が発する言葉は、ほとんどが「あゝ」とか「おゝ」といふやうな詠嘆ばかりなのです。
例へば、日本随一の名勝である松島。

テレビの映像は4Kで松島の絶景を映す。その景色を目の当たりにしながら、芭蕉はただ「あゝ」と詠嘆する。それを何度か繰り返す。そして「まつしまや…」とつぶやく。
すると画面には、
「松島や あゝ松島や 松島や」
といふ文字が映される。(尤も、この句は芭蕉の作ではないらしいが)
平泉にのぼり、中尊寺を訪ねた場面では、やはり「あゝ」と詠嘆したあと、「夏草や…」とつぶやく。

すると画面には、
「夏草や 兵どもが 夢のあと」
といふ句が映される。
立石寺を訪ねると、季節は5月の末。しきりと蝉の声が響いてゐる。蜩の声も聞こえる。

そこでも芭蕉は「あゝ」と嘆じて、当然
「しずかさや…」
とつぶやく。
岩にしみ入るのは、いろいろな蝉の声があつて、その中には蜩の声も混じつてゐたのだらうか。
人が自然に対する。鮮やかな自然もあれば、美しい自然もあり、雄大な自然もある。
圧巻なそれに相対する人には、最初、言葉がない。その霊妙さに圧倒されて、ただ「あゝ」とか「おゝ」としか言へない。
その人から、どのやうにして17文字の言葉が出てくるのか。「あゝ」と「17文字」との間にどのやうな目に見えない繋がりがあるのだらうか。
多分、単純には繋がらないだらう。本人の中で何度も何度も推敲が行はれる。そして「これが最高の形だらう」と思へるものに行き着く。しかしそれでもそれは、最初の「あゝ」に含まれるすべてを表現し得てゐるだらうか。
その辺の、詠嘆と言葉の間の繋がりを考へさせる、NHKはなかなか秀逸な番組を作つたものだと感心したのです。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
鯛になつて泳いでみる 2023/01/02
-
「柔らかい土を作りなさい」 2013/10/22
-
流木を拾つて売る暮らし 2021/03/04
-
神は死んでいないか、どうか 2018/10/26
-
スポンサーサイト