物語を書き換へる③「今日感謝したことが、明日起こる」
「今日感謝することが、明日起こる」
といふ新しい物語に書き換へるのはどうでせうか。
かう考へるとき、意識のフォーカスは「今日」にあります。そして「明日」は「今日」の結果に過ぎないのです。
ところが実際には、我々はよく
「明日起こってほしいことを、今日願ふ」
といふやり方をする。
このとき意識は「明日」を向いてゐます。良いことが起こつてほしいのは「明日」であり、「今日」はその「明日」のための「準備期間」に過ぎない。
受験生が「今日」一生懸命勉強する。「明日」志望大学に合格することが願ひです。
サラリーマンが「今日」一生懸命働いてコツコツとお金を貯める。「明日」念願のマイホームを建てるためです。
このやうな努力は必要だし大切でせう。しかし下手をすると、「今日」は「明日」のための消耗になり兼ねない。「明日」に願ひが叶わなければ、「今日」の努力が無価値に感じられてしまふ可能性もある。
それで、「今日の私」にフォーカスできるといふ意味で、「今日感謝したことが、明日起こる」といふ物語は悪くないと思ふのです。ただ問題は、本当にさうなるかといふことです。
そもそも、かういふ今日と明日のつながりを、あまり意識したことがない。それに、今日意識的に感謝することも多くない。
もし今日何も感謝しなかつたとしたら、明日はどうなるのか。感謝しなかつたことが起こるのでせうか。

今日、転んで掌と額をひどく擦りむいたとします。昨日との関係で考へると、どうして今日こんなことが運悪く起こつたのか。
昨日の私は翌日こんなことが起こるなど、考へもしなかつた。こんな出来事に対して感謝も不感謝もなかつた。それなのに、どうしてこんなことが起こつたのか。
このとき、一度、今日から昨日を振り返つてみます。もし昨日私が転んでケガをすることを感謝してゐたら、今日それが実際に起きたとき、感謝できたでせうか。
いやむしろ、かう考へたほうがいいかも知れない。
「今日私が転んで痛い目を見たのは、今日からでも苦痛に対する感謝を持つやうになりなさいといふことを、私に教へてゐる」
私は今日転ぶことによつて、
「私はいつも、どんなことにも感謝する人間なのかどうか」
といふ命題を考へる人になるといふことです。
転んで痛い目を見ること自体は、どう考へても感謝できることではない。しかし、そのお蔭でさういふ人に変はれるとすれば、それはある意味で感謝ですね。
私が「今日」さういふ人になれば、「明日」は確実に変はるでせう。

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