物語を書き換へる②「誰が私に苦痛を与へるのか」
一口に「苦痛」と言つても、その内容は実に様々です。
前の記事で、神が悪霊人を送る結果として私に「苦痛」が起こるといふ「復活論」の説明を紹介しました。
その中身をさらに分析すると、「苦痛」の起こり方には2つある。一つは、悪霊人が直接に私を苦しめる。もう一つは、悪霊人が別の地上人(悪人)に働いて、彼が私を苦しめる。
かう聞くと、この「苦痛」はかなり厳しいもののやうな印象があります。例へば、悪霊人が私に病気を起こす。事故に遭はせる。経済的に破綻させる。
あるいは、悪人がやつて来て、突然私をぶすりと刺して致命傷を負はせる。騙して財産をふんだくる。
かういふ「苦痛」を甘受せよ、さうしなければお前の罪は清算されないと言はれると、これは大変に困る。大病を甘受し、死ぬほどの怪我を甘受し、地獄の苦しみを甘受しなければならない。人生はまさに苦海になる。
(注)「甘受」とは何かについて「復活論」で次のやうに説明してゐます。 「(自分に起こつた苦痛を)当然のこととして喜んで受け入れること」。 つまり、どれほど理不尽に見えたとしても、「私が受けて当然」と思ひ、しかもそれを嫌々ではなく、「喜んで」受け止めなくては甘受にならないといふことです。 |
しかし「苦痛」といふのは、さういふ人生で一度起こるかどうかのやうな大きなものばかりではない。我々は日常生活で、身近な人から頻繁に苦痛を受けることがあります。
夫婦であれば、妻は夫からいろいろな苦痛を受ける。夫は特別に「悪人」といふやうな人ではないが、それでも頑固であまり妻の言ふことを聞いてくれない。溜まつた家事の手伝いを頼んでも、好きなプロ野球を観戦して腰をあげてくれない。さういふことのいちいちが、妻にとつては苦痛です。
かういふことは、もちろん妻ばかりではない。夫には夫の感じる苦痛があり、子どもには子どもなりの苦痛がある。会社の同僚を通して感じる苦痛もあり、隣人を通して感じる苦痛もある。
私の周りには、私を突然ナイフでぶすりと刺すやうな明らかな悪人は滅多にゐない。しかし私に苦痛を与へる人はたくさんゐる。ほとんどの人が何らかの苦痛を与へると言つてもいゝかも知れない。
その人たちの背後に悪霊人が作用してゐるのか。それは分からない。分からないけれども、さうだと想定してもいゝと思ふ。
「復活論」をこのやうに読み解くと、我々の日常は苦痛に満ちてゐると思はれてくる。これはつまり、我々の日常は「甘受」を通して蕩減条件を立てるチャンスに満ちてゐるといふことです。
かう考へると、逆に、我々はこれらのチャンスをうまく活かしてゐるだらうかといふ疑問が生じてきます。苦痛を甘受すれば蕩減条件が立ち、神の恩恵が深まるといふ原則がある。それなのに、我々はその苦痛にむしろ反発して、むざむざとせつかくのチャンスを無為に捨ててしまつてゐるのではないか。さう疑はれるのです。
「夫はなぜいつもかうなんだらう。変らない夫のせいで、私は不幸なのよ」
と妻は思ふ。さう思ふ妻は、自分の側に絶対的な正当性があると信じて疑はないのです。
自分の正当性を主張したい。自分が正しく、自分の考へと違ふ人が間違つてゐる。これは我々の意識が持つてゐる確固たる「物語」のやうです。
「復活論」の原理は、この既存の「物語」を書き換へよと言つてゐる。「自分が正しいと言ふ物語を、一旦捨てなさい」と言ふのです。
従来の物語では、苦痛の原因は私の外にある。悪い誰かがゐて、その人が私を苦しめてゐる。
その物語を捨てて、苦痛の原因が私の中にあると考へてみなさい。私を苦しめてゐる人は私の外に誰もゐないといふ物語を新たに作つて、古い物語を上書きしなさい。それが「復活論」の説く「苦痛の甘受論」だと言へます。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
神様、昨夜もお疲れ様でした 2012/02/07
-
立体的な存在をめざす 2011/07/12
-
負ける強さ 2010/01/28
-
神性を信頼する教育 2014/10/11
-
スポンサーサイト