良心の声は間髪入れない
おばあちやんとの大過ない日々が続いてゐるが、その日々にも、ときどきハッとすることがある。
1日のほとんどをベッドの上で過ごすやうになり、日に3回の食事と下の手伝ひをする。その度にベッドに一旦座らせないといけないが、結構難儀をする。
この前、あまりにも思ふやうに体を動かせないものだから、介助の仕方がつい荒くなる。
すると、おばあちやんが
「痛い!」
と声を上げる。
「どうしてそんなにひどいのかね?」
と難癖をつけてくるので、私もつい
「おばあちやんが思ふやうに動いてくれないから、腹が立つんだよ」
と言ひ返す。
するとおばあちやんが一言、
「私の責任なんだね」
と言ふ。さう言つて、あとは黙る。
認知症の人とは思へないやうなことを、おばあちやんはときどき言ふことがある。このときもハッとさせられたのです。
私が腹を立ててゐる責任は、おばあちやんにある。おばあちやんが私の思ひ通りにならないから、私はおばあちやんに腹を立ててゐる。
「それをお前は私の責任だと言ふ。それでいゝのか?」
と、おばあちやんに指摘された気がしたのです。
「ご指摘、有り難うございます」
私は自分の不徳を心の内で自覚しました。
私をイライラさせる人が私の目の前にゐるので、私はイライラし腹を立てる。ふつうには、さういふ因果関係を無自覚的に承認してゐます。しかしおばあちやんは「さうではない」と指摘するのです。
「お前が腹を立てるから、私が腹を立てさせる人になつてしまふ」
とおばあちやんは見立てる。因果関係の見方が真逆なのです。
尤も、おばあちやんは
「私の責任なんだね」
とは言つたが、
「それでいゝのか?」
とまでは言つてゐない。
二番目の言葉はどこからともなく聞こえてきた。そのタイミングはおばあちやんの一言から間髪入れない。
おばあちやんの言葉ではない。それは誰の言葉なのか。

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