生後18ヶ月で「人」になる
前回の記事「人が生きた者になるとき」で、
「すべてのものにはそれ固有の名前がある。そのことに気づくときに、人としての心(意識)を持ち、生きた者になるのではないか」
と書きました。
それでは実際に、赤ん坊が「一つのものには一つの名前がある」と気づくのはいつ頃だらうか。それを考へてゐるとき、偶々見返してゐた過去の記事「『一』といふものは定義しない」が目に留まつたのです。
数学者の故岡潔博士が、
「数学では一を仮定して、一というものは定義しない。一は何であるかという問題は取り扱わない」
と説明する。
それは要するに、人は「一」を分かつてゐるのか、分かつてゐないのか?
人には2つの心があつて、第一の心では定義できない、取り扱へないが、第二の心では分かつてゐる。岡博士はさう考へるのです。
第一の心は「意識」を通す心で、「言葉」を介してものごとを分かる。「これは、これこれかういふものです」といふ説明によつて、「なるほど、さういふことですね」と分かる。
それに対して第二の心は「意識」を通さないでものごとを分かる。だれでも「一とは何か」分かつてゐるつもりなのは、この第二の心があるからです。
さうだとすれば、人は成長段階のいつ頃、第二の心で「一」が分かるのか。岡博士が自分の孫を注意深く観察したところ、大体生後18ヶ月頃に違ひないと言ふのです。なぜさう言へるのか。
赤ん坊はそれまでも周囲の物事に反応して笑ふことがある。しかしその笑ひは、謂はば「無意味な笑ひ」であつて、体の振動に過ぎないとも言へる。
ところが18ヶ月を過ぎる頃になると、「にこにこ」笑ふやうになる。笑ふといふ行動が、特定のことに対する特定の感情として現れる。
つまり、生後18ヶ月での変化とは、「一つのこと」に「一つの行動」で対応するやうになるといふことなのです。だから岡博士は、このときに赤ん坊は第二の心で「一」を把握したと考へる。
ここには
「一つのものには一つの名前がある」
といふ概念は出てこないものの、本質的には同じ意味であるやうに思へます。
「一」が分かるといふことは、
「ものごとには、一つ一つ、それ特有の意味がある」
と理解することです。
父母が赤ん坊を喜ばせようとして、目の前でガラガラを振つて鳴らす。それを見て、赤ん坊が「にこにこ」笑ふ。それは「この人たちは、私を喜ばせようとしてゐるのだな」と、赤ん坊が父母の行動の意味を理解してゐるといふことでせう。
「ものごとの意味を理解する」
これが、人間の人間らしい心です。人間としてこの世界を理解するといふことです。このとき、人間はその他の万物と一線を画される。
人が人になる。それが生後18ヶ月頃だと考へて良ささうに思へます。

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