人が生きた者となるとき
そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 (『聖書』創世記2:19) |
この一節は、人間が他の生き物と根本的に違ふといふことを示す、極めて重要な記述です。
この記述のどこががそんなに重要か。人(アダム)が獣や鳥のすべてに「名前」を付けたといふ件(くだり)です。
今我々を取り囲むほとんどのものにはすでに名前がついてゐます。それで「ものに名前がある」といふことに、特別な注意を払ふことがない。しかし我々がある特定の「もの」を「認識」しようとすれば、その「もの」に必ず「名前」を付けなければならないのです。
例へば、十数年前までこの世になかつたスマートフォンが出現したとき、それには絶対に新しい名前が必要だつた。そこで、「スマート」も「フォン」もすでにある言葉だつたが、それを組み合はせて新しい名前を作り出した。
「利口な電話」。今までの電話のやうに音声で話せるだけではないぞ。それ以上の面白いことがいくらでもできる。なかなか絶妙なネーミングですね。
もしもその新しいプロダクトに何の名前も付けなかつたとすれば、我々はそれを呼ぶことができないばかりか、認識することも、興味を引かれることも、扱ふこともできないでせう。
スティーブ・ジョブズがiphoneを考案したとき、その機器の仕組みとその名前とで、どちらが先に生まれただらうか。ふつうには機器そのものが先のやうに思へますが、同時かも知れないし、もしかして名前のほうが先だつたかも知れない。
「もの」には必ずそれ独自の「名前」がある。
これは、我々人間に「人間らしい心」即ち「意識」があることを証すものなのです。どういふ意味か。考へてみませう。
我が家の愛犬にはラッキーといふ「名前」を付けてゐます。生後数ヶ月で買つて来て、ラッキーと名づけ、以来づつとその名前で呼んでゐますから、名前を呼べばたいていすぐに飛んできます。
来ればご飯がもらへる。撫でてもらへる。それが分かつてゐるから、喜んで来るのです。
しかし彼は、「ラッキー」が自分の名前であることを認識してゐるのか。例へば、同じ犬類であつても他の犬には別の名前がついてゐる、自分には自分だけの名前があり、それが「ラッキー」だと思つてゐるのか。多分さうではないでせう。
彼にとつて「ラッキー」といふ音声は彼の「名前」ではなく、その音声は「餌が供給される」といふ出来事と結びついてゐるだけです。だから、「ラッキー」と呼ばれると「飛んでいく」。「ラッキー」といふ音声は「飛んでいく」といふ行動を起こす引き金になつてゐるに過ぎないのです。
我々人間も、生まれた当初はこの犬の次元に近いのかも知れない。自分の名前を表す音声が聞こえると、お乳がもらへる。散歩に連れて行つてもらへる。だからその音声に反応するのです。
ところがあるとき、その音声はただ自分の行動を規定するものではなく、実は自分の「名前」であつたといふことに気づく。この気づく瞬間こそが、人としての心(意識)の誕生ではないかと思はれます。赤ん坊が動物ではなく、人間になる瞬間なのです。
すべてのものには名前を付け得る。名前を付けることによつて初めて我々はそのものを認識できる。名前によつてこの世に相対するといふ在り方こそ、我々を他の万物から明確に画するものです。
このやうに、アダムが生き物たちに名前をつけていつたといふ聖書の記述は、アダムが明らかに「神の似姿としての人」になつたといふことを暗示してゐる。それはその記述の直前に次のやうにあるのとぴたりと符合してゐます。
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。 (同上2:7) |

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