自然は知性的である
「ウイルスは地球の免疫反応」
だと、マルクス・ガブリエル氏は考へてゐます。(『つながり過ぎた世界の先に』)
ウイルスを体内から撃退するために我々の体は免疫機能を備へてゐる。しかしその人間の敵であると思つてゐるウイルス自体が免疫反応だと言ふのです。この場合は、我々人間が外敵だといふことになる。
ドイツ人のガブリエル氏は2009年に若干29歳でボン大学の正教授に就任した新進気鋭の哲学者です。「新しい実在論」を提唱して世界的な注目を集めてゐるらしいが、それについては詳しく知らない。
今なお世界中で収まらないコロナパンデミックは自然の自己表現だと言ふ。人間が自然の複雑な生態系をどんどん破壊するので、生態系自体が人間に反撃をしてきたその表れがパンデミックだと見るのです。
地球自体を一つの大きな生命体と見て「ガイア」などと呼ぶことがあります。ガブリエル氏の見方も、それに近いのかと思へる。ただ、かういふ見方は最近になつて出てきたといふより、むしろ太古においてはそれが当たり前だつた。この哲学者はそれを明確に指摘してゐます。
彼は、一神教において自然は知性的ではなく、愚鈍だと言ふ。自然は知性を持つておらず、生命体としての本能と法則だけで生きてゐる。だからそれを有効利用するためには、人間が適切に管理してやらなければならない。しかも聖書によれば、創造主はその管理の権限を人間に与へてくださつてゐるのです。
かういふ自然観においては、自然が人間に教へてくれることなど基本的にないと考へるでせう。
ところが、太古、少なくとも今から2000年前くらゐまでは、人類はそんなふうに考へてゐなかつた。その前の20万年間、人間と自然の関係において、主体は自然だと誰もが当たり前に感じてゐた。
さういふ関係で人間が自然に対すれば、自然のほうが人間よりも知性的なので、必要なことを必要なときに自然が人間に教へてくれる。人間はそれに謙虚に耳を傾けるべきだ。さうしてこそ、人間はより正しく生きることができる。
さういふ感覚を、2000年前まで誰も疑はなかつた。
だから、重要な決定事項があるときは、必ず自然に尋ねてみる。亀の甲羅を焼いて、ヒビの入り方で国の政策を決定する。国内の情勢が不安定になつたとき、真昼に太陽が隠れて天地が暗闇になれば、朝廷に異変が起こる予兆ではないかと予感した。
さういふことは、今では「単なる迷信」「科学的知識の欠如」と軽くあしらはれるでせう。だからこんにち、ウイルスパンデミックが起こつても、それは大抵の人にとつて自然からの警告でもメッセージでも何でもない。単なる自然現象に過ぎない。
自然的にしろ人工的にしろ、ともかく生物学的法則によつてウイルスが発生した。そのウイルスはまた、生物学的法則によつて人から人へ伝染する。
今ではその正体もほぼ科学的に解明されてゐる。PCRといふ最新技法を使へば、わづか数個のウイルスだつて検出できる。ワクチンといふウイルス封じ込めの強力な武器も、人類は開発済みだ。
人間の知性は今やウイルスのそれを確実に凌いでゐる。だから自然の知性に耳を傾ける必要などない。大抵の人はさう思つて、政府の発表とマスコミ報道にばかり耳を傾けるのです。
ときどき、
「ウイルスの蔓延は、人類への警鐘ではないでせうか」
といふ声が漏れることもあります。
しかしそれは所詮「刺身のつま」程度のものに過ぎない。人間の知性一辺倒の世の中に、わづかばかりの風変はりな薬味として添へられてゐる。大抵の人は「さうかもね」と言ふものの、真顔で受け止める人はゐない。
「自然から人類への警鐘」
などといふことが、今では愚鈍に聞こえるのです。
一神教の世界では、それも仕方ないかも知れない。しかし日本のやうに神道と仏教によつてその精神性を育てられてきた我々までも、PCRのやうなものにばかり気を取られてゐる。これはちょつと不思議な気がします。
ガブリエル氏は
「自然が主体だといふ考へを復活させなければならない」
と明確に言つてゐます。
私はこの声が決して愚鈍ではなく、貴重だと思ふ。

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