精神の性別
池田ソクラテスと自称フェミニストが「男と女」について討論してゐます。(『帰ってきたソクラテス』池田晶子)
フェミニストは、 「女性はこれまで『女性といふ性』のゆゑに、男性から抑圧され、人間としての尊厳を認められてこなかつた」 と言ふ。 それに対してソクラテスは、こう問ふ。 「君は自分は女であるといふ。その『自分』とは君の精神かね、肉体かね」 「どつちもです。精神も肉体もひつくるめて私といふ全的な人間なんです」 とフェミニスト。 そこで、ソクラテスはもう一歩突つ込む。 「もしも他人に、君は本当は男だらう、女だといふ絶対的な証拠を見せろと言はれたらどうする?」 「どうするつて … 。肉体しかないでせうね」 「するとその精神の方の性別は、どうやつて認識すればいいのかな」 ここでフェミニストは困惑する。 「精神の性別は … 何となく男らしいとか、何となく女らしいとか … 」 「おや、『らしさ』を認めないことが君たちの眼目のひとつだと僕は聞いてゐたがね」 |
かう言はれて改めて考へてみると、男と女の違ひを論じるのは思ひ込んでゐるほど容易なものではない。
フェミニストは、自分の精神も肉体もすべてふくめて「女」であると主張する。しかしソクラテスから「あなたが女であることをどうやつて証明しますか」と訊かれると、「肉体しかないですね」と答へざるを得ない。
肉体は形状が違ふために、男女の区別は自ずと明瞭です。ところが精神の性別は曖昧で、「何となく女らしい」で識別するしかないやうに見える。しかしソクラテスは、精神はそもそも男でも女でもないと言ふ。
それを
「僕は僕だ。僕は、ただ僕なんだ」
と言ふのです。
「僕は僕だ」とはどういふ意味でせうか。かう言ふことによつて、彼は実は何も言つてゐないやうに思へる。「A=A」といふことに一体どんな意味があるでせうか。
男でも女でもない精神は、私の本質です。本質は「僕は僕だ」といふふうにしか言へない。本質は何ものによつても制約も限定もされない。
それに対して男と女を峻別できる肉体は、私の属性です。私そのものではない。しかし属性は私の本質を現象化させるものなので、目に見える私はその属性に大きく左右される。それはつまり、属性はわたしを限定するものでもあるといふことです。
それで我々は、自分を見るにしても人を見るにしても、属性の側から限定して見てしまいやすい。「男である私」「女である私」といふふうに。
人はもちろん、さうであるしかない。男であり女であることによる幸せもあり、悩みもあるのがこの世の現実です。
しかし苦悩の一端は、もしかすると、お互いの本質を見通せないところにあるのではないか。さういふ気もするのです。
人としての尊厳は属性の中にではなく、本質の中にある。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
ワニはなぜ真ん中の娘を喰つたのか 2020/06/23
-
セルフトークを減らす 2010/05/15
-
へそが開く 2019/05/10
-
こだまの世界 2010/01/12
-
スポンサーサイト