私が生きる物語
我々は詰まるところ誰でも、自分の物語の中で生きてゐる。さう思ひます。
私がどこに生きてゐるかについては、2つの観点があります。
一つは、創造論にせよ進化論にせよ、すでに出来上がつた環境的世界があつて、私はその中に生を受け、ごく小さな一人の人間として生きてゐる。環境的世界の中に私が生きてゐる。さういふ観点です。
もう一つは、仏教で言ふところの「三界は唯心の所現」といふ観点。現世だけではない、過去世も来世もあるとすればすべては私の心の現れだと観じるのです。一つ目とは逆に、私の心の中に世界があるといふ観点です。
どちらが正しいのか。どちらも間違つてはゐないと思ひます。ただ、ふつうの感覚では第一の観点が圧倒的に正しい気がします。
聖書では、神が光から造り始めて、6日間(6段階)でこの天地すべてを造り上げたと教へる。進化論では、130億年以上前に宇宙がビッグバンから始まり、46億年前に地球が生まれ、長い時間をかけて生物が生きていける環境を整へてきたと分析する。
さういふ環境の中で、私はお父さんの精子とお母さんの卵子が結合し、人間として生まれて、生きてゐる。さまざまな次元の現存する環境なくして私は生きることができない。それはもちろん、確かなことです。
しかし「詰まるところ」とわざわざ断る意味は、我々はそのやうな外的環境と直接関はつて生きてゐるのではないといふことです。
環境からさまざまな情報をさまざまな形で、私は受信する。目からは視覚情報として、耳からは聴覚情報として、皮膚からは触覚情報として。
受信した1次情報には、色がない。良いも悪いもなく、重要も些末もなく、ただあるがままのフラットな情報でしかないのです。
しかしそれらを脳で取捨選択する。重要で緊急と思はれるものだけを残し、それ以外は捨てるか、場合によつては潜在意識に格納する。さうして取捨選択した情報から、自分なりの物語を作るのです。
以前「カモのやうに羽ばたけ」といふ記事で、こんなふうに書きました。
池をゆったりと泳ぐカモも、時々喧嘩をすることがある。何が喧嘩の原因になるのかはよく分からない。しかしその喧嘩は長くは続かず、すぐに分かれてそれぞれの方向へ泳ぎ去る。 それから2羽は何回か激しく羽ばたいて、喧嘩の間にたまつた余分なエネルギーを放出する。その後は羽をたたみ、何事もなかつたかのやうに、のんびりと泳ぎ出す。 |
これを見ると、カモは自分の物語の中に生きてゐないことが分かります。我々人間は、なかなかかうはいかないでせう。
例へば、相手が去つた後でもこんなふうに考へる。
「やつと何とか追ひ返したが、いつまたやつて来るか知れない。あいつはきつと何かを企んでゐる。見れば分かる。性の悪い顔をしてゐる」
相手の顔を見た視覚情報は、自分なりの物語を作る材料に使はれます。その物語は、自分の周りには敵ばかり、一時も油断がならないといふ物語です。敵でない者をわざわざ敵にするその物語の中で、私の人生は不安に満ちたものになります。
人によつて、自分が書く物語はその心の姿によつて千差万別です。しかし、誰もが例外なく、自分の書く物語に我知らず縛られて生きてゐる。それは間違ひないと思ふ。

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