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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

十五で嫁いだ姐やは幸福だつたか

2021/04/18
読書三昧 0
十五で姐やは

童謡「赤とんぼ」は日本独特の晩夏の風情を短い歌詞と懐かしみのある曲調で見事に描いてゐる。文字通り名歌だと思ふ。

三木露風が1921(大正10)年に作詞したものに、1927(昭和2)年山田耕筰が曲をつけた。

歌詞の中に、

十五で姐やは 嫁にゆき
お里の便りも 絶え果てた

とある。

この歌詞を口ずさむと、私はどうしても、古い日本の、侘しく悲しい、暗いイメージを抱いてしまふのです。

「姐や」は実の姉ではなく、この家で子守奉公していた女中のことです。その姐やが奉公をやめて、どこか私の知らない土地へ嫁いで行つた。その歳が15だといふのです。

数への15なら、満で言へば13歳か14歳。そんな歳で結婚して、どんな結婚生活が始まつたのだらう。結婚してしばらくはときどき便りも届いてゐたが、数年もたつと、その便りも来なくなつた。今では様子も分からない。

「絶え果てた」といふ表現は、とても侘しく響きます。姐やは幸福に暮らしてゐるだらうか。子どもも産み、仕事も重くて、体を壊してはゐないだらうか。「果てる」といふ言葉には、さういふどこか不幸を連想させる響きがあります。

昔の日本の女性。彼女たちは概して忍耐と労苦の辛い人生を強いられた。封建的な家父長制度のもとで、彼女たちには男と同等の発言権もなく、虐げられて一生忍苦しなければならなかつた。さういふイメージが、私にはありました。

それを象徴するのが「赤とんぼ」のあの一節だと感じてきたのです。

ところが、『逝きし世の面影』(渡辺京二)を読むと、そのイメージが相当払拭されます。少なくとも、江戸時代中期から明治中期まで、日本の女性たちは想像するよりはるかに「溌溂」として「自由」だつたことが分かる。

その「溌溂」と「自由」が失はれるのは、むしろ明治の中期以降。その頃から却つて男性支配文化は強まつていつたのです。

現代ではその歴史的な流れの中で、
「男性支配は許すまじ。何事であれ男女平等」
といふ方向へ相当強い圧力がかかつてゐます。

しかし『逝きし世の面影』では、江戸から明治にかけての女性たちがいかに自由を謳歌し、幸福であつたかを、当時日本に滞在した欧米人たちの声を通して証言する。と同時に、女性の幸福はどのやうに制度的に保障されてきたか、そもそも女性の幸福とは何かについても掘り下げて論じる。示唆に富んでゐます。

ここではその論の一部を紹介してみませう。

「つまり家制度とは女たちが、前半は辛苦をしのび後半は楽をするという生活サイクルを世代ごとに繰り返すシステムではなかったか」
と渡辺は思量する。

家制度と言へば、どうしても男性本位のやうに考へられがちです。しかしその実は、女性を主軸とする一種の幸福の保証システムだつたと考へればどうか。

当時の女性たちは家庭外の世界には何の関心も持たなかつた。しかしそれは男性も同じで、明治になつて立身出世とか立志などが男子の課題になるまでは、男性もやはりおのれの家の圏内で幸せなあるいは不幸な一生を送つた。

しかもその家庭生活が幸せか不幸かを決定するのは、男性ではなく女性であつた。さう考へれば、家制度は確かに、男中心の制度ではなく女中心の制度だつたと言つておかしくはない。

家制度の中で、確かに女性にはより多くの忍従が要求されたに違ひない。

嫁として嫁いでくれば、その家風に合はせて教育がなされる。なかなか厄介な姑がゐて、家計の財布は容易に手放さない。隠れて涙を流す場面も多いだらう。しかし、結婚の前半は忍従の家であつたものが、後半には彼女自身の支配する家になる。

忍従を「自己抑制」「自己放棄」といふ少し高尚めいた言ひ方に換へれば、それらを通過するがゆゑに、歳を重ねた婦人たちには静かな威厳が備はることが多い。

例へば、モースといふ観察者は明治15年和歌山を訪ねたときの印象として、かう記してゐる。

私は、老婦人たちが著しくよい顔立ちをしているのに気づいた。非常に優しく、母性愛に満ち、そして利巧そうな顔である。


若い娘にとつて(若い男にとつてもさうかも知れないが)「惚れた腫れた」といふ恋の楽しみは、一時的な憧れであり得る。しかし結婚生活の義務を遂行していくのに、それはまつたく無縁であることを彼女らはよく知つてゐたのではないか。

「惚れた腫れた」は「恋」であり、「恋」の力だけでは長い結婚生活など遂行して行けない。夫への献身といふ自己犠牲を払ふとしても、それもやはり「恋」によるのではない。

本当に深い「愛」を育てようとするなら、「恋」とは無縁に「義務」といふ束縛の形を通過せねばならない。それを実践してきた婦人たちは、必然的に威厳があり慈愛に満ちた、良い顔立ちになる。

旧弊の代表のやうに言はれる家制度も、かういふ視点で見れば、悪いところばかりではないと思はれます。家制度がほとんど解体された現代、「束縛」といふものは嫌はれる。自由には自由の良さが確かにあるとしても、今と昔でどちらがより幸福か。簡単には断じられないなと思ふ。

「赤とんぼ」で歌はれた十五で嫁いでいつた姐やにも、束縛はあつたでせう。それでもその束縛を通過して、十五までに見知つてゐた顔つきとは随分違ふ婦人になつてゐた可能性もある。さう考へれば、「赤とんぼ」の歌詞もそれほど侘しいものではないと思はれてきます。

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