批評は気持ちいゝ
前回の記事で冒頭に小林秀雄の一文を引用しました。
批評家はすぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。 |
批評家はすぐ医者になりたがるかもしれない。しかし、我々は皆すぐ批評家になりたがる。私自身もそれをいつも感じてゐます。
批評家は、最近広く流布する「コメンテーター」と言つていいかもしれない。テレビのワイドショーなどには、今や欠かせぬ存在ですね。
ワイドショーは世の中のいろいろな話題を扱ふから、コメンテーターがその話題に暁通してゐるとは限らない。さういふときは「私の感じですけど…」と断つた上で、見解とも言へない感想を述べたりする。
悲惨な事件なら「本当に可哀さう。お気の毒に…」とコメントし、不正事件なら「許せませんね。早く法律を変へるべきです」と憤慨する。いづれにしても喋る様子を見てゐると、とても気持ちよささうに見えます。
批評やコメントは気持ちいゝのです。どこが、なぜ気持ちいゝのか。
小林が批評家を医者に喩へたのは、医者を貶める意図からではない。言ひたいのは、医者自身には(少なくともその時点で)「痛み」がないといふことなのです。
痛みのない立場で、患者の痛みを治療しようとする。目の前で患者がどれほど痛がらうが、それは(同情はするにせよ)ついに医者自身の痛みではない。
批評家もこれと同じ立場に立ちます。世の中に問題があるといふとき、その問題ゆゑに誰かが痛みを感じてゐる。批評家はその問題から適当に離れたところで、その痛みがどんなものか、原因は何か、処方箋はどうかと論じるのです。
痛みがない立場で痛みについて論じる。だから気持ちいゝのです。
論じるときに用ゐるものは、知識と体験でせう。医者も治療に当たつてはその2つを使ふ。2つとも過去のデータであつて、それをもつて現在の痛みに対処する。それにはそれなりの精度があるので、大抵の場合有効に働く。しかしそのデータにないのは、小林の言ひ方を借りるなら、「状況の感覚」なのです。
問題の渦中で痛みを感じてゐる当事者(患者)にあるものは、第一が「状況の感覚」です。どんな痛みなのか。その痛みにどんな不安を感じてゐるか。それを一刻も早く払拭したいのが当事者の願ひなのです。
小林は
「(専門家である医者の見立てよりも)私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用することにしている」
と述べる。
これを私なりに読み解けば、かういふことです。
評論家には専門家としての豊富な知識があるであらう。世間一般より分析力にも長けてゐるであらう。しかしその論は往々にして観念論に陥る危険がある。
「かうならば、かうなるはず。かういふ場合には、かうすべき」
かういふ論は一見偉さうに見えるけれども、「状況の感覚」を欠いてゐる。それなら自分はむしろ、観念論よりもその場その場の「状況の感覚」に土台を置いて事態を考へたい。そのほうが、事態をより正確に捉へることができると信ずる。

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