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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

患者の拙い返答を信用する

2021/04/14
鑑賞三昧 0
小林秀雄
患者

批評家はすぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。医者が患者に質問する、いったい、どこが、どんな具合に痛いのか。たいがいの患者は、どう返事しても、すぐなんとも拙い返事をしたものだと思うだろう。それが、「状況」の感覚だと言っていい。私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用することにしている。
(『考えるヒント』小林秀雄


病気について最も長い時間をかけて学び、広くその知識を有してゐるのは、なんといつても医者に違ひない。一方患者といふのは、大抵は病気に対しては素人で、自分の体が痛む理由も治療方法も正確に知りはしない。

だから、どこかが痛くて医者にかかり、医者から「どこが、どんなふうに痛いですか」と訊かれて、「この横腹の辺りがキリキリと…」などと実感を拙い言葉で伝へようとする。

患者が答へるこの拙い答へを、小林は「状況の感覚」だと言ふ。そして、自分は医者の見立てよりも患者の拙い返答の方を信用するのだと言ふ。

これはどういふことだらう。

医者といふのは、今現には自分が痛みを感じてゐない。痛みのない立場で、痛みを訴へる人の痛みを訊き出し、それを何とか治療してやらうとする。

その治療の際に医者が用ゐるのは、「痛みの実感(状況の感覚)」ではなく、それまでに書物で学び、ある程度は臨床で体験してきた知見でせう。我々は大抵、医者のさういふ力を信用する。そして実際、それが我々を助けることも多い。

それなのに、小林はなぜ患者の拙い感覚のほうを信用すると、敢へて言ふのだらうか。

さういふことをつらつら考へてゐるとき、韓流ドラマ『イ・サン』を観てゐて、かういふ場面に出会つたのです。

主人公イ・サンは朝鮮王朝第22代の国王、正祖。父は朝廷内の派閥争ひの中で謀略にかかつて刑死する。その子であつたイ・サンがその祖父英祖の後を継いで国王となるのです。

英祖は強権の人であつたが、王として民に目を向ける王でもあつたやうです。その英祖がまだ若年であつたイ・サンに問ひをかける。

お前が聖君にならうとするなら、第一にすべきことは何か

正祖◀朝鮮王朝第21代国王・英祖

王となるべき者は、幼くして中国の古典を叩きこまれる。イ・サンもそれなりに学んでゐたから、その知識をもとに答へやうとする。ところが、いくつ答へを出してもことごとく、英祖は否定する。

「さうではない。その前にすべきことがあるのだ」
と言ひ、正答を出すのに3日だけ猶予を与へる。

イ・サンは夜つぴて古典を漁つて答へを見つけ出さうとするが、いくら探しても「これ」と思へるものは見つからない。遂に諦め、家臣に命じる。

「昨年、朝廷に届いた上奏文をすべて持つて参れ」

上奏文は膨大な数にのぼる。中には子どもが書いた拙いものもある。「とてもすべてに目を通すことは無理でございます」と家臣は止めるが、イ・サンは聞かない。

約束の3日が過ぎる。王の面前に出るものの、答へはない。

「それも分からぬやうでは、王位など継げぬ」
と英祖は言つたあと、
「台帳を見た。お前、東宮の予算を3千両も使つたさうだな。その金がお前が勝手に使へる金とでも思つたか。何に使つたのだ」
と詰問するのです。

イ・サンは言葉に詰まり、その場では答へない。王は3千両の使ひ道を担当部署に調べさせる。報告されたその使途に驚いた王は、改めてイ・サンを呼び、真意を確かめる。

イ・サンが答へる。

「民からの上奏文をすべて読んでおりましたら、文も拙い子どもたちのものが多くありました」

それによると、身寄りもなく「客引き」をして何とか生きてゐる子どもたちが多い。ところが先ごろ「客引き」の禁止令が出され、彼らは生きる術を失つた。生きていけない者は清に売られる。

それを知つて、子どもたちを乗せた船が清に向けて出る前に、それを阻止せねばと決断した。東宮の金はそのために使ひ果たした。

その顛末を聞いた英祖は叱責の矛先を担当の官吏に向ける。
「どうしてそれらの上奏文を王宮にまで上げなかつたのか。担当の役人は即刻罷免にし、子どもらを清に売つた商人を捕らへよ」

そしてイ・サンには
「そなたがしたことが、まさに(聖君の)政治だ。よくやつた」
との一言だけを残す。

後、側近に
「イ・サンは答へを申し述べることはできなかつたが、その前に行動で答へを実行したのだ」
と心の内を漏らすのです。

どこまでが史実か分からない。脚色の匂ひが芬々とします。それでも(それだけに?)なかなか面白い。

最初、イ・サンは医者だつた。古典をひつくり返し、その中に問題解決の答へを発見しようとした。ところが、答へはその中にはない。「患者(民)の痛み」がそこにはないからです。

民からの上奏文、とりわけ恐怖に震へる子どもたちの拙い文章の中に答へがあるのを見出した。これが「状況の感覚」ではないか。そんな気がしたのです。

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なるほど、養老孟司
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