仏に遭ふては仏を殺せ
現代の三大世界宗教であるキリスト教、イスラム教、仏教のうち、前二者は一神教と呼ばれますが、仏教は何と呼べばいゝのでせうか。
禅学者の久松真一は前二者を「信の宗教」、仏教を「覚の宗教」とも呼んだ。この分類で少し考へてみようと思ひます。
一神教は「信の宗教」。その神は唯一絶対であり、この世を超越してゐるので、我々の五感では認識できない。だから「信じる」といふことになるのです。
「信じる」といふとき、「信じる」人の目は自分の外を向いてゐる。「信じる」主体である私が、私の外のどこかに存在するであらう神を「信じる」のです。
私が「信じる」神は、どのやうな神か。
「神は親である」と教へられれば、
「親であるなら、すべての子どもを等しく愛してくださる方であらう。しかも理想的な親であるはずだから、私を必ず幸福に導くやうに愛してくださるはずだ」
と信じる。
ところが、私がそのやうに「信じる」ことが正しいとする根拠はどこにあるのか。
それを考えると、そのやうに信じてゐる「私」とは一体何者なのかといふ疑問にぶつかります。「信じる私」が本当に正しいと信じるに値する私であるのかどうか。
そのやうに考へていくと、私の目が外から徐々に内へと視点を移動してくるのが分かります。
「仏教は覚の宗教である」と言ふ意味は、仏教がもともと視点を内へ向ける宗教だといふことだらうと思ひます。
臨済宗には有名な公案があります。
「仏に遭ふては仏を殺せ」
こんな言ひ回しは、一神教には考へられない。「神に遭ふては神を殺せ」とは一体どういふことか。意味が分からない。あり得ない。
臨済宗はどういふときにこんな刺激的な話をするのか。
臨済宗にはそれなりの修行の方法があるでせう。修行するのはいゝ。ところが、その修業をした人が、何かを信じてしまつたり、絶対化してしまつたりすると、途端に「この馬鹿野郎」と怒鳴られる。絶対的なものを信じるなど、もつての他だといふわけです。これが「仏を殺せ」といふことです。
なぜ「馬鹿野郎」、なぜ「もつての他」なのか。
自分とは別のところ(自分の外)に絶対的なものを想定して、それを求める限り、それは決して得ることができない。そこを誤解をしてゐるから「馬鹿野郎」なのです。
つまり、禅が追求してゐるのは絶対者ではなく、絶対的なものの「求め方」だと言へばいゝでせうか。超越した絶対者を認識しようとするなら、認識の主体である自分自身をこそ、まづ問はなければならないといふことです。
一神教から見れば、仏教は「神のゐない、神を教へない宗教」だと言ふかも知れない。しかし決してそんなことはないと思ふ。どこに絶対者を観るかの違ひなのです。

にほんブログ村

スポンサーサイト