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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

笑ひは和解を意味する

2021/04/10
思索日記 0
笑い

もう20年以上も昔のことを思ひ出してみる。子どもたちがまだ幼い頃、1歳から3歳くらゐの頃を思ひ出してみると、人間は「どういふときに」、「なぜ」笑ふのかについて改めて気がつくことがあります。

何か気に入らないことがあると、彼らは相当頑固にぐずる。泣いて駄々をこねて自分の我を通さうとするのです。

大人のほうはぐずりをやめさせたいと思ふ。それで何か好きさうなものを目の前に見せたり、冗談を言つてみたり、それでもだめなら脇をくすぐつたりしてみる。

しかし幼児も結構手強い。自分の我がそのまま通りさうだと見込めるまで、さう簡単にぐずりをやめない。

さういふ彼らが、我が通る前でも、ある時点で態度を変へてぐずりをやめ、笑顔に変はる瞬間がある。それはどういふときか。

脇をくすぐられてくすぐつたいので、こらえきれず笑ひ出すといふこともあり得るが、思ひ出すとどうもそれだけではない。「許す」といふか「我を通すのを諦める」といふ態度に変はるときに、笑ひが現れるやうなのです。

問題を抱へてそれにてこずつてゐるとき、人は笑ふことができない。言ひ方を換へれば、現状を受け容れるときに、人は初めて笑ふことができる。

ぐずるといふのは、自分の意に沿はない周囲を力づくで変へようとする態度です。力づくで周囲に対するとき、人は決して笑へない。なぜなら、笑ふというのは現状を受け容れることなので、笑へば自分が力づくを捨てることになるからです。

だから笑ひは「和解」を意味する。笑ふというのは、「私はあなたを許して、現状を受け容れる、和解する意志があります」といふことなのです。

笑ひはきわめて人間的な感情表現です。動物には人間のやうな笑ひは見つからないと言はれる。

心理学ではその笑ひの独自性を、かう分析するやうです。

笑ひには「笑ふ主体」と「笑はれる対象」がはつきりと分かれるといふ特徴がある。つまり、人が笑ふとき、「私は何を、なぜ笑つてゐるのか」といふ明瞭な自意識がある。現状をしつかりと把握してゐるといふことです。だから人が何かに没頭してゐる際中には、笑ひは起こらない。

同じ感情でも、「怒り」とか「怖れ」といふのは、今の全体的な状況に自分自身が入り込んでゐるために、対象化が起こらない。何をなぜ怒り、怖れているのか、自分ではつきりと意識化できてゐないのです。

幼児に限らず、どんな大人であつても、笑顔がない人には近寄りにくい。ところがその人が破顔大笑した途端、ぐつと親近感が湧いて近づける雰囲気が生まれる。笑ひが「和解」を意味してゐることの証拠です。

幼児がそのことを理解してゐるかどうか。それは分からないが、「和解」を選択したときには自然に笑顔に変はり、また笑顔のときには「和解」しかないといふことを本能的に知つてゐる。それは事実です。

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