無色透明な私
「私」といふ意識について、脳科学者の茂木健一郎さんが、
「意識の中枢に行けば行くほど、無色透明で抽象的になる」
と表現してゐます。
例へば、「私とは何者か」といふ設問に答へてもらふと、大抵の人はまづ「自分の名前」「自分の生年月日」「自分の職業」などから挙げ始める。家庭や社会での自分の役割、そして自分の性格や身体的特性などが次に挙がってくる。
しかし、これらはみな、よく考へると「私の属性」なのであつて、「私そのもの」ではない。これらのほとんどは10年前と今とで変はつてゐる。代替可能なものも多い。
「私の中核」といふのは、かういふさまざまな属性を一つづつ剥がしていつたのちに出てくるものだと考へられます。どんなものが出てくるか。それが「無色透明」で「抽象的」だと言ふのです。
これはどういふ意味かと言へば、「私の中核」には「個性」がないといふことです。そして、個性がないからこそ変はらない。普遍的とも言へる。
その点を指して、茂木さんは
「意識の中核は世界に一つしかないんぢやないか」
と言ふのです。
つまり、すべての人はその中核において「同じ一つの意識」を持つてゐる。その同一の意識の周りにさまざまな属性がプラグインされることによつて、千差万別の「私といふ意識」が生じてくると考へられるのです。
この観点はとても面白いと思ふ。
「中核としての意識」と「属性としての意識」。この2つを私なりに名づけると、前者が「自己」、後者が「自我」です。そして「私自身を知る」とは、前者の「自己」に触れることではないかと思ふ。
しかし現実には、多くの場合我々は「自我」を観て、それを「私」だと考へてしまつてゐる。これがどうも考へ違ひです。
ある人の、かういふ体験談があります。
1日の忙しい仕事が終はつて、仕事仲間が集まり、酒場にでも繰り出して行かうといふ話になつた。いつもなら喜んで行く自分だつたが、その夜はなぜか気が進まず、独りで寮に残つた。
そこで、自分の専門分野の論文を読み出した。するとこれが面白くて、時間を忘れて読み耽つた。酒と女に目もくれず、難しい論文を読み耽ることがこれほど楽しいものかと、初めて体験した。
このとき
「あゝ、これが私の『自己』なんだな」
といふことに気がつく体験をしたのです。
それまで自分は、人や世間が良いと言ふものを良いと思ふ価値観で生きてきた。しかし本当に良いものはさういふところにはなく、「自己」の中に最も価値の高いものがある。今まで自分と思つてきたものは、「自我」に過ぎなかつた。さういふことに気づいたのです。
これは一種の「悟り」と言つてもいい体験だと思ふ。「悟り」などといふと、長い修業の果てに到達するものといふ従来のイメージがあります。しかし実は、悟りはそんなに難しいものではない。
ふとした瞬間に「自我」が消えると「自己」に出会ふ。さういふ悟りは誰にでも可能だと思へます。
「自己」は無色透明で抽象的なので、ふつうの慌ただしい生活をしてゐるときにはなかなか気がつかない。楽しいもの、刺激的なものを求める「自我」に目をくらまされるのです。
「自己」つまり「私といふ意識の中核」は、日々の生活に直接触れるやうな表面にはなくて、比喩的に言ふと、もつと深いところに「静かに」潜んでゐる。そこに到達して少しでも触れると、他人や世間の価値観があまり気にならなくなる。
「私」といふ存在は一つの肉体に制限された閉じた存在だと、我々は思ひ込んでゐる節がある。しかし、実は深いところで「ただ一つしかない普遍的なもの」と繋がつてゐるのかも知れない。
これを探求することは、無限に面白い。ロケットが太陽系を抜け出して広大な宇宙を探査するよりもはるかに面白いことに思はれるのです。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
生命の動的平衡 2021/08/31
-
笑ひは和解を意味する 2021/04/10
-
「ロゴス」と「ピュシス」 2022/12/16
-
直観の弟子と概念の弟子 2023/04/22
-
スポンサーサイト