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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

認識の地動説

2021/04/08
思索三昧 0
地動説

この世が「天動」なのか「地動」なのかといふ議論は、太古の昔からあつたやうです。

基本的には、人は本性的に「天動説」を受け入れやすいと思ふ。実際に自分の立ち位置は動かないやうに感じるし、見上げれば太陽も月も星も天空を周回してゐるやうに見える。自分が常に動いてゐると考へるのは、何だかとても不安です。

「天動説」を疑ふ人もゐなくはなかつたものの、これはやはり実感と一致しない。そのため、どうしても少数派に留まつてきた。西洋で多数派に転換するのは、やはりコペルニクスの登場によります。

人間の認識で考へると、「天動説」では自分は動かない。不動の位置に立ち、動く外部のものを「見てゐる」といふ立場です。

それに対して「地動説」では、自分が動いてゐる。そしてどこかに動かない中心点があつて、そこから自分は「見られてゐる」といふ立場です。

動かないで見てゐる自分と、動きながら見られてゐる自分。2通りの自分があり得るのですが、普段の自分はどちらに落ち着いてゐるか。さう考へると、やはり動かないで見てゐる「天動説」の自分がデフォルトの自分ではないかと思ふ。

不動の位置を保ちながら、周囲を見回す自分。それがやはり収まりがいいでせう。

だからデフォルトでは、動かない私がゐて、その周りを様々な人が動いてゐる。動かない私には私なりの考へと評価基準があつて、それに基づいて周りの人を評価する。

すると、ある人は私の評価基準の許容範囲に収まる人で、さういふ人は受け容れることができる。別の人は許容範囲に外れる人で、さういふ人は受け容れられない。私の周りを回らせるためには、私の許容範囲に入つてくれるしかない。

「私が正しいのだから、あなたが私の周りを回るなら、私の考へに合ふやうにあなたが変はりなさい」
といふ考へになります。

この考へは、私にとつては都合が良ささうに思へる。ところが、実際には一つ深刻な問題がある。私が「天動説」をとつてゐるとき、私が私の周りを回つてゐると見做してゐるその相手自身も「天動説」の信奉者である場合が多いのです。

太陽系に譬へるなら、私と相手のお互ひが
「私が太陽だ。あなたが私の周りを回りなさい」
と主張し合つてゐるやうなものです。

「私は不動で、変はる余地はない。変はるとすれば、それはあなただ」
この主張こそ、多くの人間関係のトラブルの原因ではないかと思はれます。

このトラブルを避けるには、どうしたらいいか。「地動説」の立場を取ることではないでせうか。

地動説は自分を動いてゐる対象的存在と見ることであり、自分を客観的に見る立場です。自分に対するメタ認知と言つてもいい。

この立場は、自分を主観的に「私はいつも正しい」と考へない。「自分は今こんなふうに考へるが、もつとよい考へがあればいつでもその考へを受け容れる」といふ態度です。

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小林正観1
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