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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「モナ・リザ」といふ鏡

2021/04/05
思索日記 0
モナ・リザ

ダ・ビンチの代表的名作「モナ・リザ」。最初はモデルがゐたが、長年に亘つて加筆し続けるうちに、もはや実物のモデルから遠ざかつてしまつたらしい。そして何とも名状し難い、不思議な絵になつた。

ダ・ビンチは注文を受けても、描き上げるまでに時間がかかり過ぎるので、才能は万人が認めるところでありながらも注文が少ない。「モナ・リザ」もご多分に漏れず、買ひ手がつかないまま、ダ・ビンチ自身がづつと持ち歩いた。

その間、薄く薄く塗り重ねるうちに、陰影だけで描かれた絵が出来上がつた。そして、実物モデルを離れて、謂はば「どこの誰でもない、個性のない」女性の絵に仕上がつてしまつたのです。

すると、その絵は見る人、見るときによつてさまざまに違ふ表情を現すやうになる。

これはどういふことかといふと、個性がないために、その絵自体がまつたく平らな鏡になつてゐるのです。つまり、鏡であるその絵は、見る人の心をそのまま映す。微笑んでゐるとか怖いとかいふのは、その絵が醸し出してゐるものではなく、見る人の内面が現象化してゐるのです。

私はそのとき、絵を見てゐるやうでありながら、実は私自身を見てゐる、といふことになる。

これは「モナ・リザ」だけに起こる現象ではない。むしろ、我々はこれと同じ体験を日常的にしながら生きてゐるのです。「モナ・リザ」は一つの象徴として挙げただけで、この世の天地万物はおよそ私を映す鏡なのです。

天地万物は、基本的に言語を持たない。山は話さないし、海も話さない。謂はば、非言語的な1次情報だけを持つてゐます。

私がそれを認識するには、必ず言語化する必要がある。「この山は日本一高い」「穏やかな海は母親のやうだ」など、その認識は言語といふ2次情報として表現される。

つまり、言語でない対象を言語化することで、私たちの認識は成り立つてゐると言へます。この「言語でない対象を言語化」するときに、我々の内面(の無意識)がかたちを取つて現象化する。この現象化したものが「意識」です。

我々が生きてゐるとはどういふことか。無意識を意識化しながら、自分の内面には一体何があるのかを知つて(意識して)いくプロセスだ、とも言へます。

例へば、ある人に出会つて
「この人は、私と合はない」
と、瞬時に(言語的に)感じる。

これは、この人について私が持つてゐる無意識が、この人に会ふことで意識化されるのです。そしてその意識によつて、
「私にはかういふ無意識があつたのか」
といふことが初めて分かる。かういふ仕方以外に、私は私自身を知る方法がない。

ホ・オポノポノといふ一種のセラピー手法では、無意識の中に潜在する情報を「記憶」と呼び、人生の目的はこの「記憶」を消去していくことだと考へます。

無意識は、例へてみれば、広大な「記憶」の海です。意識はその海から湧き上がる泡。その量には圧倒的な差があるので、一体いくつの泡を消せば海の「記憶」がなくなるのか、果てがない。

「記憶」を消去するといふ作業が有効だとしても、多分一生続けたところで終はらないでせう。しかしそれでも、やつてみるだけの価値はある。なぜかといふと、「記憶」が消えてなくなる分、そこに新しい「インスピレーション」が供給されることが期待されるからです。

この「インスピレーション」の供給元を「神聖なる知能」とも呼びます。これは別に、「神」と呼んでもいゝし、「天」と呼んでもいゝでせう。

私なりに考へれば、この「記憶」を消すといふ作業は、「堕落性を脱ぐ」といふ作業なのです。堕落性を一つ脱げば、そこに「良心」といふ名のインスピレーションにスイッチが入る。そのインスピレーションに従へば、私は今後同じやうな状況に出会つても、過去の堕落性によつてではなく良心によつて対応できる可能性がある。

例へば、これまでは「合はない」と思つてゐた人でも、今度出会へば「嫌だな」といふ思ひが湧く前に、その人の好ましいところが目につく。といふより、目についてしまふ。

その人は前と変はつてゐない。「モナ・リザ」の絵も、変はらずそこにある。しかし私に見えるものは変はる。これはつまり、私の(無意識の)中の「記憶」が変はるといふことであり、私が一歩、本然の私に回帰するといふことです。

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