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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

親鸞はさらに私なし

2021/04/04
思索日記 0
キリスト教 仏教
親鸞に私なし

浄土真宗の方はよく
「浄土真宗は仏教ですか」
と尋ねられることがあるさうです。

親鸞聖人の「悪人正機説」は、確かに革命的といふか逆説的な教へに思へる。従来の仏教概念からすれば、悟りを得て解脱したいと願ふから人は苦行をも厭はない。さういふ人こそ善人と言ふべきであつて、その善人よりも前に悪人(精進しないどころか自分勝手に生きてゐる人)が救はれるなどといふのは、およそ仏教ならざる妄想ではないか。

だから「浄土真宗は仏教ですか」と疑義を呈されるのです。これに対して、親鸞聖人が常に繰り返された言ひ分がある。

更に親鸞、珍しき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ人にも教へ聞かしむるばかりなり。




我親鸞は、釈迦如来の教へを自分で信じ、人にもそれだけを教へてゐるに過ぎず、自分なりに考へた法を広めてゐるわけではない、といふわけです。

「自分なりでないといふなら、その証拠を示せ」
と更に問ひ詰められるなら、その証拠は主著『教行信証』にすでに記してあるといふ答へが返つてくるでせう。

ここではその『教行信証』まで戻つて論じるだけの知識も意図も私にはないので、少し論点を変へてみようと思ひます。

考へてみたいのは、かういふことです。

浄土真宗が仏教であると主張することに、どのやうな意味があるのか

このやうに主張することで、真宗の正当性が仏教自体の正当性によつて担保される。つまり、①仏教は正しい教へである、②真宗は仏教である、③真宗は正しい教へである。かういふ論法になります。

②真宗は仏教である、といふことについて聖人は
親鸞はさらに私なし
と仰る。

真宗の教へを説くのに「私」はない。つまり、「私はかう思ふ」も「私はかう思はない」もない。ただ「お釈迦様がそのやうに説かれるので、私もそのやうにするだけです」といふ立場です。だから真宗が仏教であるのは論を俟たない。

「私なし」と言ふのは、容易なことではないでせう。信仰の世界では「私なし」は極めて重要な心的姿勢に違ひないものの、人間である以上「私」をまつたくなくすのは容易ではない。果たしてできることでせうか。

私には何とも言へないが、聖人において本人の言はれる通りだとして、さらに遡ると究極的な問題にぶつかる。

釈迦如来は私なしであつたか
といふ疑問です。

「私なし」といふ親鸞聖人が「信じ」るといふその教法を説かれた釈迦如来に「私」があつたとは思へない。もし釈迦如来に「私」があつたなら、その方の教へを「私」のない聖人が無条件に信じるなど話にならない。

さてさうだとすれば、釈迦如来の教へは「仏教」と呼ぶべきでせうか。便宜上呼ぶしかないかも知れないが、しかしそれは少なくとも釈迦如来の教へではない。なぜなら、釈迦如来には「私」がないからです。

だから、お釈迦様に
「仏教はお釈迦様の教へでせうか」
と問へば、おそらく
「私の教へではない」
と答へられるに違ひない。

それなら、仏教は誰の教へなのか。

この問ひは、独り仏教に限らない。キリスト教は誰の教へなのか。イスラム教は誰の教へなのか。イエス様にもし「私」がなければ、キリスト教はイエス様の教へではない。

仏教にせよキリスト教にせよ、「私」のない人に臨んだ真理であるなら、それは逆説的に、誰の教へでもない。「私」がなければ、誰にでも開示される教へだと言へる。

もしさうなら、親鸞聖人が敢へて「如来の教法を信じ」と言ふ必要もないでせう。ただ世間に通じるための便法に過ぎない。本当は「私のない人に開示される教へを信じ、人にも教へ聞かしむるばかりなり」と言へばいゝのです。

「仏教はお釈迦様の教へで、それから一歩でも外に出れば、それは仏教ではない」
というやうな話はみな、「私」に縛られた圏内で出てくる話ではないだらうか。

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