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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

観念の「私」から実体の「私」へ

2021/03/30
愛読作家たち 0
養老孟司
観念の「私」

「昔々、あるところにおぢいさんとおばあさんがをりました。おぢいさんは山へ柴刈りに…」
と、桃太郎の昔話が始まります。

最初のおぢいさんは「が」なのに、次のおぢいさんはなぜ「は」なのだらう。「が」も「は」も主語を示す助詞なのですが、微妙に機能が違ふ。しかし何がどう違ふのだらうと考へると、意外と難しい。

もうずいぶん昔、大学生のときですが、言語学の授業でこの問題に取り組んだことがあります。いろいろな文例を並べて「が」と「は」の意味合ひの違ひを熟考した。何らかの試案を書いて出した記憶はありますが、どんな試案だつたかは覚えてゐない。

一見門外漢のやうですが、解剖学者の養老孟司先生が実に面白い観点から、この問題を解いてゐます。

「が」は、脳内の過程を示してゐて、「は」は実体を示してゐる。英語で言へば、機能的に見て「が」は不定冠詞「a(an)」、「は」は定冠詞「the」に当たる。


結論だけ言つても分かりにくいでせうから、少し説明してみます。

最初に「おぢいさん」と言ふときには、子どもに
「お前の頭の中にぢいさんのイメージを思ひ浮かべなさい」
と言つてゐる。これが「脳内の過程」。

そのイメージが浮かんだら、次のおぢいさんは物語の中で動き出し、山へ柴刈りに行くやうになる。特定のおぢいさんが動き始めるわけです。これが「実体のおぢいさん」。

この区別を、英語は不定冠詞と定冠詞でつけてゐる。つまり、最初のおぢいさんは「an old man」で、まだ頭の中で思ひ浮かばれてゐるだけのおぢいさん。次のおぢいさんが「the old man」で、これは特定のおぢいさんとなつて動き出す。

日本語には形としての冠詞はないが、その代はりに助詞の使ひ分けで同じ機能を果たさせてゐるのです。

「が」で示すおぢいさんは、プラトンの言ふイデアとしてのおぢいさんです。具体的な顔かたちは決まつてゐない。

それに対して、「は」で示すおぢいさんは、イデアから抜け出し、一人の具体的な顔かたちをもつて山へ登つていくおぢいさんです。

かういふ説明を聞くと、さすがに「唯脳論」の養老先生だなと思ふ。

ところで、数日前から同じ問題を引つ張り過ぎるやうですが、お釈迦様の諭された「三輪空」の教へ。これは「①私が②誰々に③何々をしてあげる、を忘れなさい」といふアドバイスです。

このアドバイスの「①私が」について考へると、「が」で示されてゐる「私」は脳内過程の「私」だと言へる。実体のない、観念の「私」です。

そこで、「私は」に替へてみる。するとこの「私」は実体として動き出す「私」となる。観念の「私」と違つてくるでせうか。

「私が妻のために一生懸命働く」
「私は妻のために一生懸命働く」

2つ並べてみると、どうでせう。実体の「私」には、自ら思ひを定めて働くといふ、能動的な響きがありますね。

「妻の反応がどうであれ、私は私のすべきことをする」
といふ不動の決意も感じられるやうです。

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