観念の中の授受作用
お釈迦様が弟子の質問に答へて諭された「三輪空」の教へ。3つのもの、即ち「①私が②誰々に③何々をしてあげる」を忘れ去りなさいといふ教へですが、これにはかなり深刻な自己矛盾が内包されてゐると思ふ。
いや、矛盾と言ふのは正確ではないかな。理想論あるいは原則論としてはいゝが、現実に実行するとなれば往々にして齟齬をきたす。さう言つたほうがいゝかも知れない。
授受作用は、神を中心として主体と対象が授け受ける運動を指します。主体が対象に何かを与へたら、対象から主体へ何かが返される。この運動によつてあらゆるものが発展すると言ふのです。
ところがDVの例で見たやうに、夫が妻(や子ども)のために一生懸命働いても、感謝も何も返つて来ないばかりか不当にも批判される(と、少なくとも夫は感じる)。そこに問題が生じるわけです。
授受作用の原理からすれば、与へる主体は
「与へれば、相応なものが返つてくる」
と期待して然るべきでせう。さういふ原理があると言ふなら、主体は返礼を期待するやうに意識が予めセットされてゐるはずなのです。
それなのに、期待してゐたものが返つてこない。これは原理に反するから、主体の中に葛藤が起こる。これはむしろ、当然のことに思へます。
授受作用といふ原則論と現実の授受作用との間に一体どんなズレが生じて、こんな問題が生じるのか。悩ましい問題です。
一つの仮説を立ててみます。
主体が対象に何かを与へれば、対象から主体に何かが返つてくる。これは実際に何かが主体と対象との間を行き来する前に、お互いの観念の中で起こる作用の姿なのです。
主体の観念の中では、こんな作用がある。
「私が対象のためにこれくらゐ一生懸命やつて与へれば、対象はそれに感謝して、当然これくらゐのものを返してくれるはずだ。さうすれば私は嬉しくて、もつと与へたくなるだらう」
これは、文字通り観念的な作用です。ところが、実際の作用はこの通りにならない。最良のものを与へたつもりなのに、対象からは期待通りのものが返つてこない。
なにも難しい言ひ方をするまでもない。平たく言へば、期待外れなことが起こるのです。
さてそのとき、一体何が問題なのか。
このとき、主体には正当なものが返つて来てゐる。ところがそれが観念の中で期待したものとは違ふので、おかしいと思ふだけなのです。
実は、おかしいのは返つてきたものではなく、観念の中で期待したものなのです。ここを逆に考へるために、葛藤が生じる。
今の現実の授受作用では、妻からの無反応、あるいは一方的と思へる批判が返つてくるのが順当なのです。だから、さういふものが返つてきたとき「妻がおかしい」と思はず、「これが我々の今の授受作用の現実のレベルなのだ」と思へばいゝ。
さう思へば、
「どのやうに授受作用を変へれば、もつと私の観念に近いものが返つてくるか」
と考へ、改善することができる。そのとき、お釈迦様の「三輪空」の教へは貴重なヒントになり得ます。

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