恩義を売らない
前回の記事で
「加害者にならないための最良の方法は、被害者にならないことのやうだ」
と書きました。
それなら、どうすれば被害者になる道を避けることができるでせうか。
「人に恩義を売らないことである」
といふ方法を考へてみようと思ひます。
お釈迦様の教へに
「三輪空」
といふものがあるさうです。
「空」とは「忘れなさい」といふこと。つまり、3つのことを忘れなさい、といふ教へです。
その3つとは、
①私が
②誰々に
③何々を
してあげた、といふことです。
これを私なりに「人に恩義を売らない」と表現してみたのです。
3つのことをするな、といふのではない。3つのことをよくして、その上でそれを忘れなさい、といふのです。
前回の記事で取り上げたDVを例に考へてみませう。
夫が妻に暴力を振るふ。その行為の背後には、
「①ぼくは②家族のために③一生懸命働いてゐる。相当我慢もしてゐる。それなのに、妻はそれを理解しようともせずに、一方的に批判してくる」
といふ被害者意識があると分析しました。
その被害者意識が仮想的加害者(妻)に対する怒りを生み出す。その感情を平和的に治められないと、暴力的解決手段として手が出てしまふ。さういふプロセスでDVが発生してゐます。
家族のために一生懸命働くこと自体、悪いことではない。しかしその苦労が「必ず感謝され、報いられなければならない」と考へると、厄介なことになるのです。
だから、お釈迦様は3つとも忘れよと仰る。しかし、忘れるのは3つすべてでなくてもよいかも知れない。
例へば、①の「私が」だけを捨てれば、
「②妻のために③一生懸命働く」
となります。
これだと、働いてゐるのは誰か、判らない。すると、妻が喜んでくれやうが、期待通りの反応がなからうが、「私」には影響がない。これは仏教の教へで言ふ「自我(小我)をなくす」といふことになるでせう。
あるいは、②の「誰々のために」を「私のために」に入れ替へる。すると、「私」が「一生懸命働く」のは「私」のため、といふことになる。それなら、「私」が「一生懸命働く」結果、「私」が喜べばそれでいゝのであつて、他の誰かの反応は関係なくなるのです。
これは手前勝手とか自己中心とは違ふ。今自分がしてゐることが相手を満たす前に自分を満たしてくれるかどうか。そこに意識を向けることです。「自分を愛する」といふとても重要なテーマにもつながります。

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