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「個性」は「身体」にある

kitasendo
個性

私が小中学の頃には、「個性を伸ばせ」などといふ教育を明示的に受けた記憶がない。最近では文科省あたりが子どもの「個性」を強調するのでせうか。

そもそも自分の個性など、分かるものなのか。分かつたとして、それは伸ばせるものなのか。

落語界は今でも古い徒弟制を捨ててゐない。そこでは「個性」を厳しく否定するやうです。立川一門の立川志の春さんが自分の体験を証してゐます。

略歴を見ると、帰国子女でイエール大学の卒業とあるから、なかなかの高学歴です。知識も能力も、それなりの自負があつたでせう。

ところが入門したとき、師匠の志の輔から
お前が、これが自分の個性だと考へてゐるやうなものには何の価値もない
と宣言された。

師匠から稽古をつけてもらふ。そのとき、一言一句はもちろん、息継ぎの場所まで師匠の真似をさせられる。

「お前のオリジナリティなんかは、一切入れるな」
と、がちがちの型に押し込められる。

それで練習して、師匠から認められて初めてお客さんに披露できる。

ところが、そんなふうにがちがちに固められ潰されてきた中から、それでも滲みだしてくるものがある。それが本当の自分の個性だ。といふのが、志の春さんの体験談です。

「でも、それで良かつたと思ふ」
と、志の春さんは言ふ。

「初めから、お前の考へで工夫してやつてみろ」
と言はれたら、多分ぐちゃぐちゃな噺になつて、失敗してゐたやうな気がするのです。



養老孟司先生も『バカの壁』の中で、同様のことを書いておられます。

意識(脳の特に新皮質と言つてもいいでせうか)は、徹底的に共通性を追求する。その代表者が「言葉」です。

例へば、相手が「私はリンゴが好きだ」と言ふ。それを聞いて私も「リンゴ」を頭に思ひ浮かべる。ところが、相手の思ふ「リンゴ」と私の思ふ「リンゴ」とは必ず違つてゐるのです。

「リンゴ」と言へばお互ひに、色は赤くて、形は丸くて、味は大体こんな感じと、思ひ浮かべてゐる。しかしそれら具体的な属性がお互ひでまつたく同じはずはないのです。

その違ふところが「個性」でせうが、それに拘つては意思疎通ができないし、共通認識を持てない。だから「言葉」は個性を排除して、共通性を求めるのです。

それなら、我々の「個性」はどこにあるのか。「個性」は不要なのか。と言へば、「個性」はあるし、不要でもない。

養老先生によれば、「個性」はそれぞれの「身体」にある。生まれながらにして、「身体」はみな違ふ。その形も違へば、動き方も能力も違ふ。だから「個性」など改めて探す必要もないし、「伸ばす」こともできない。

「リンゴ」といふ言葉から、お互ひがそれぞれ違ふ「リンゴ」を思ひ浮かべるのは、「リンゴ」の個性もあるでせうが、思ひ浮かべる脳の個性でもある。脳自体も「身体」の一部であるといふ意味で、個性がある。さうでありながら、面白いことに、脳を通して現れる意識は個性を排除しようとする。

結局、我々の大きな誤解が何かと言へば、「個性」は「意識」あるいは「心」にあると思つてゐることです。しかし「意識」の正体は反個性主義者なのです。「個性」は「身体」あるいは「無意識」にある。

だから、志の春さんの言ふやうに、
「個性は我知らず滲み出てくるもの」
なのです。

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なるほど、小林秀雄
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