どうしてこんなニュースを観るのか
おばあちゃんをデイサービスに預ける日は、少し肩の荷がおりる。昨日久しぶりに近くの温泉に行つて湯につかり、上がつてロビーに出ると午後のワイドショーがテレビから流れてゐる。
しばらく聞くともなく聞いてゐると、今日も「総務大臣の答弁がどうのかうの」といふ話題に花が咲いてゐる。いくつかコメントが続いた後で、司会者が眉を曇らせるふうで、
「どうしてこんなニュースばかり続くんでせうねえ」
と嘆息する。
「おいおい、そのニュースを流してゐるのは、いつたい誰なんだ」
と、つい突つ込みたくなつた。
ニュースはどこからともなく湧いてくるものではないでせう。もともとこの世にニュースなどはない。あるのはただ、さまざまな現象だけです。現象しかないこの世にニュースを作り出すのは、現象をニュースとして語つてゐるその人なのです。
だから、正確を期すなら、その司会者はかう言ふべきだつたと思ふ。
「どうして我々はこんなニュースばかりを作るんでせうねえ」
すると、その質問にはどう答へるべきか。
「さういふ種類の現象に、あなたが特別の関心を抱くからでせう」
テレビのニューススタジオでは総務大臣の話題に花が咲いてゐる。それと同じ頃、温泉を出て近くを流れる川沿ひを眺めると、そろそろ至るところで桜が咲き始めてゐる。
これもまた一つの「花が咲く」現象ですから、これに関心を向ければこれをニュースにすることもできます。
実際、間もなく「桜前線」ニュースが連日メディアを賑はすやうになるでせう。日本人は桜に特別な関心を抱いてゐるので、桜の開花はニュースになるとニュースの作り手は考へる。だから、水仙の開花ではなく桜の開花だけをニュースにする。
しかし
「どうしてかうも毎年桜は繰り返し咲くんでせうね」
などといふ伝へ方はしないはずです。
それならどうして、件の司会者は総務省騒動についてはさういふ伝へ方をしたのか。
本人としてもこの問題に関心がある。しかし本人の関心だけでなく、これをニュースにすれば多くの人の関心にマッチするだらうと踏んでゐる。かと言って、桜前線にやうに「待ち遠しいなあ」と喜べるやうなニュースではない。喜べないけど関心はあるに違ひないと思ふので、「どうしてこんなニュース」といふ伝へ方をする。
しかし考へてみると、メディアに乗るニュースの過半は「どうしてこんなニュース」のやうな気がする。「どうしてこんな」でなくては、そもそもニュースにならない。少なくとも耳目を集めるニュースにはならない。
今日、高速道路のこの区間を100万台の車が走つた。その中の1台が事故を起こした。するとそれがニュースになる。運転手が80代の高齢者なら、さらに大きなニュースになる。何事もなく走り過ぎた99万9999台はニュースにならない。
総務大臣でも、接待に誘はれても法律に抵触しないやうに振る舞ひ、仕事はそつなく真面目にこなしてゐたのでは、ニュースにならない。油断して法を外れたり、仕事に大きめの穴でもあけてこそ、ニュース作成者の関心を引くのです。
もう少し深読みすることもできます。
菅政権になつて以来、総務省はNHKの改革や携帯電話の価格引き下げなどに動き始めた。もう少し総務省がおとなしかつたら、今回ここまで大きなニュースになつてゐなかつたかも知れない。
ニュースの作り手、送り手は、効果的なニュースの作り方をよく心得てゐる。どんなニュースがより多くの耳目を集めるか。どう報道したら送り手の意図を効果的に達成できるか。件の司会者はそれを知らなかつたといふより、知らないふりをしてとぼけて見せただけかも知れない。
一方、ニュースの受け手はどうだらう。
ワイドショーの司会者は本音では伝へたい。しかし、口では「どうしてこんなニュースばかり」と嘆息して見せる。そんなニュースを、なぜ物好きにもテレビをつけてわざわざ観る必要があるか。
ニュースが我々の主体ではない。伝へられるべきニュースがどこかに存在してゐて我々を支配するのではなく、我々の意識が選択する現象がニュースとなるだけなのです。

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