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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「分かる」といふこと

2021/03/18
思索三昧 0
ニュートン

分かるとはどういふことだらう、と考へる。

私には「分かつてゐる」と思つてゐることも多いだらう。逆に「これは分かりにくい」と思ふものもある。「分かる」と「分からない」の違ひは何だらう。

結論が出てゐるわけではないのですが、取り敢えず、思ひつくところから考へてみます。

中学高校の頃、数学は苦手教科で、難問に出会ふと難渋した。テキストの最後には回答が載つてゐるのに、何とか自力で解きたいと思ふと、1日でも2日でも考へ続ける。そしてうまくすると、3日目くらゐに解けて、「分かつた」といふ感動に浸ることがあつた。

数学の問題が解けて「分かる」とはどういふことだらう。分かるといふ瞬間、その解答への出会ひ方といふのは、自分でも分からない。なぜ分かつたのかが分からない。

このときの「分かる」といふのは一種の閃きのやうで、閃きは意識のレベルではなく無意識の圏内で起こつてゐる感じがする。閃きは無意識で起こり、それを順序だてて記述していくのは意識だらうと思ふのです。

あるいは、「クラシックは、どうも私には分からない」といふこともあるし、「あなたの気持ちが分からない」と言ひたくなるときもある。このときの「分からない」には、「理解できない」といふ意味とともに、「受け容れられない」といふ感情も混じつてゐるやうな感じがします。

ここで、
分かるとは受け容れることだ
といふ仮説を立ててみることにします。

数学の問題の答へが「分かる」とは、その答へを正しいものとして「受け容れる」ことと不可分でせう。「あなたの気持ちが分かる」と言へば、その気持ちを肯定的であれ否定的であれ、それがあなたの気持であるといふ事実をともかく受け容れるといふことです。

あらゆるものは落ちる。落ちるのは重力が働くからだと、現代の我々は「分かつてゐる」と思つてゐる。ところが1000年以上前の西洋では、ものが落ちるのは神が引つ張ってゐるからだと考へてゐた。

「そんなの科学ではなく信仰だらう」と言ふかも知れないが、「重力のせゐ」といふのも信仰とどれほど違ふだらう。

リンゴは落ちるが月は落ちない。それは神が引つ張つたり支へたりしてゐるからだと「分かつてゐる」人たちは、神のさういふ働きと原理とを「受け容れてゐる」。

リンゴは落ちるが月が落ちないのは、重力の原理で説明できると「分かつてゐる」人たちは、重力の原理を受け容れてゐる。両者の違ひは「何」を受け容れてゐるかの違ひのやうにも思へます。

さて、ここまでは序論で、ここから先この記事で書いてみたい本論に入ります。

10代の終はりに、私は統一原理と出会つた。何回か通して聞いてみて、「分かつた」やうな気がした。このときは特に「分かる」といふことと「受け容れる」といふこととが密接に繋がつてゐたと思ふ。「分かる」とは「受け容れる」ことであり、それはすなはち「正しいと信じる」ことであつたのです。

私の場合、「分かる」の端緒は歴史の見立て(歴史観)でした。人類史をあれほど巧みに同型の螺旋的繰り返しと分析した歴史観を聞いたことがなかつた。初めて聞いて、「分かつた」と思つた。

さう思つたのは、分析が合理的だと感じたからでせう。このとき私の中では、「分かる」といふことが「受け容れる」といふことにつながつたのだと思ふ。

歴史観を受け容れたなら、それと体系的につながつてゐる他の部分、創造原理とか堕落論、メシヤ論なども「受け容れる」ことになる。他の部分はどちらかといふと、「受け容れる」から「分かる」へと進んだやうな気がする。

メシヤ論は、クリスチャンにとつて最大の難所でせう。統一原理はキリスト教の十字架理解が間違つてゐると言つて登場してきた。天動説を信じる世の中に地動説を持ち込まうとしたやうなものです。

どのやうに説得を試みたのか。キリスト教が信じる聖書の言葉を根拠として多数提出し、それを従来とは違ふ観点で説明する。従来の説明と新しい説明と比べてみて、どちらがより合理的ですかと尋ねる。

新しい説明のはうが合理的だと感じた人は、「原理が正しい」と分かる。つまり、原理を受け容れることになるのです。

さてこのやうに原理を受け容れてみると、これにはもつと深いものがあることが次第に分かつてきます。

原理は一つの教義ではない。宇宙の根本原則である
とも言はれるのです。

原理の一部は表面上キリスト教的な表現をとつてゐるものの、根本はそれに限定されない。宇宙と人間の存在の根本を規定するものであるといふのです。これは数学で言ふところの「公理」に該当する。

数学で問題を解決証明しようとするとき、「正しい」の最終根拠を「公理」と言ひます。したがつて、「公理」自体が正しいかどうかを証明することはできない。「正しい」と信じるしかないのです。

さうすると、数学全体は
「公理は正しい。その公理と矛盾がないと感じる証明も正しい」
と信じることの上に成り立つてゐます。

それと同様に、原理全体も
「原理は正しい。その原理と矛盾がないと感じる諸論も正しい」
と信じることの上に成り立つてゐる。

これが今、私が「原理を分かつてゐる」と感じる構造だらうと思ひます。「分かると思つてゐる原理」を「受け容れ」、「正しいと信じてゐる」のです。

ところで、私がよく分からないのは、
原理が正しいと信じてゐる『私』はどこまで正しいのか
といふことのなのです。

どうしてこんな疑問があるのか。

「私が正しいと信じてゐる原理とは違ふ原理を信じてゐるあなたは正しくない」
と主張する人が結構多いからなのです。

ここは慎重に考えてみるべきだと思ふ。

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