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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

DNAの管理に服さない

2021/03/16
思索三昧 0
イエス
DNA管理

昔「サケの一生」といふやうな話を聞いたことがあります。

サケは川の上流で生まれるが、生まれると間もなく川を下つて海へ出る。大海をはるばる遊泳しながら、2,3年の間とにかく食べ続ける。

食べ続けたお蔭で体が大きくなつたところで、どんなセンサーを駆使するのか分からないが、生まれた川へと戻つていく。海水から淡水へと変はる環境に慣れるために時間をかけながら、川を遡上する。

流れを遡るのだから、そこに消費される体力は並大抵ではない。遡上の間、エサは一切口にしない。大小の難所を越えられずに死ぬものもあれば、熊に見つかつて命を落とすものもある。

艱難を克服したものだけが生誕の地、川の上流までたどり着く。着くや否や雌雄が交尾して産卵する。産卵がすむと体力尽きて、間もなく死ぬ。

川底に沈んだ親サケの体は腐敗し始める。死体の腐敗はバクテリアの繁殖を促し、辺りの水の栄養価が高まる。それは孵化したばかりの稚魚たちの成長を促し、生存率を高める。そして彼らは、川を下り始める。

稚魚 鮭

これが「サケの一生」です。サケはこのサイクルを何億年も繰り返してゐるのでせう。

「魚といつても、偉いものだ」
といふ感慨を抱いたこともあります。

餌も食べずにひたすら川を遡上し、故郷について子どもを残したら、躊躇はずに死んで自分の死体を子どもたちの栄養に供する。こんな犠牲的な生き方を、我々人間でも立派にやり遂げられるであらうか。人間以上の親の愛だなあとも思はれます。

尤も、サケ自身に「犠牲的」などといふ認識はないでせう。身も蓋もない言ひ方をすれば、サケにはさういふ生き方以外に生きる術がない。DNAの情報通りに生きてゐるのです。

DNAの指示通りに川を下つて海に出て、はるばる遠遊する。時が来れば生まれた川に戻つて産卵し、自分のDNAを残せたらそこで一生を終へる。

このサイクル全体がDNAの設計であるなら、サケはそれ以外に生きる選択肢はない。他に何かあるといふ考へもないでせう。

DNAを発見した我々人間もまた、人生のかなりの部分をDNAに管理されてゐる。サケと違ふところがあるとすれば、自分がDNAの管理下にあると知つてゐることでせう。しかしそれを知つてゐることが、実は天と地の違ひとも言へます。

仏教では、人は永遠の輪廻を繰り返すと教へる。自分でそれをしたいかどうかに関はらずさうなつてゐるといふ点では、サケのサイクルと大差ない。

キリスト教では輪廻は言はないが、有限の地上で生きたのち、必ず無限の霊界に移ることを教へる。しかし、自分が地上のどこに生まれるかを自分で決めることはできないし、あの世に行きたくないと言つても、それは多分聞き容れられない。

いづれにせよ人生の大枠がすでに決まつてゐる。その中で、人間はサケとどんな違ひを生み出せるのか。

私もサケのやうに、この世の中をあちこち泳ぎ回る。泳ぎ回りながら、「私は何のために泳ぎ回つてゐるのだらう」と考へる。そこだけがサケと違ふ。

私が輪廻するとしても、サケのやうにまつたく同じサイクルに留まるか、少しでも次のサイクルで次元が上るかは、この「何のために」にかかつてゐます。

エサ(ご飯)を食べて生きる。雌雄(男女)合体でDNAを子孫に相続する。それはサケと同じですが、「何のために」と考へ得るのは人間だけでせう。

「何のために」といふのは、自分の心の中を自分で見ることです。

「私は今ご飯を食べてゐるが、このご飯を私は喜びの心で受け入れてゐるのか」
と自分の受け止め方を顧みる。

人生の現実は日々さまざまな出来事の連続です。しかしそれらにぶつかつて体験することが人生ではなく、その現実をどのやうに私が受け止めているかで形成される私の心が人生です。

つまり、同じご飯を食べる現実であつても、「まづい」と思つて食べるか、「うまい」と思つて食べるか。その違ひで、サケのサイクルと人間の輪廻がまつたく違ふものになるのです。

そのへんの事情を、イエス様は
「天国はあなた自身の中にある」
と言はれ、仏教では
「三界は唯心の所現」
と言つたのでせう。

「私の心」はDNAの管理に服さない。むしろDNAに変化を及ぼすと思はれるのです。

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小林正観1
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