ゆく川の流れ
ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 |
有名な鴨長明の随筆『方丈記』の出だしです。朗々と詠唱してみたくなる名文ですね。
ふつうに読めば、平安から鎌倉に移行するあの混乱の時代に生きた人の、諸行無常を詠嘆する仏教的な響きが感じられる。しかしこの根底には「時間をどう捉へるか」といふ面白いテーマも潜んでゐます。
「ゆく川の流れ」とは「時間の流れ」でせう。川の水は上流から下流に向けて、絶え間なく流れ下る。時間もそれと似てゐて、過去から未来に向けて絶え間なく流れ続けてゐる。ふつうには我々はさう考へてゐます。
「淀みに浮かぶうたかた」は、人(私)です。絶え間なく流れ続ける時間の中のある時点に生まれてきて、数十年生きて、またどこへともなく消えていく。それが「かつ消えかつ結びて」です。
長明の時間観念では、動いてゐるのは時間。その中に生まれてきた私は「淀みに浮かぶ」やうに止まつてゐる。これも時間に対する一つの見方でせう。しかし反対に考へることもできないわけではない。
私が電車に乗つて、窓の外を眺めてゐるとしませう。私が電車の進行方向に向かつて座つてゐれば、外の景色は後ろに動いてゐるやうに見える。しかし、実際に動いてゐるのは景色ではなく電車であり、それに乗つてゐる自分であると考へてゐる。さう考へるのは私の頭です。
時間が動いてゐて私が止まつてゐると考へるのも、私の頭でせう。しかし、実は時間は止まつてゐて、私のはうが動いてゐると考へられなくもない。
つまり、頭の考へを変へれば、動いてゐた時間が静止した時間に変はる。時間は私の外にではなく、私の頭の中にあるといふことです。
時間にしろ私にしろ、動いてゐると感じるのは、何かが空間的に変化してゐるからです。川の水が流れてゐると思ふのは、さつきA地点にあつた水が、今は下流のB地点に動いてゐるからです。つまり水の位置が空間的に変化したことによるのです。
「昨日の私」といふ絵があり、もう1枚「今日の私」といふ絵がある。この2枚を同時に出して「これは同じ絵です」と言つても、それは受け入れられない。
ところが最初に「昨日の私の絵」を出した後、それを隠して「今日の私の絵」を出して「これはどちらも私です」と言へば、「同じですね」といふことになる。別々の絵でも時間をずらして見れば、違ふものも同じだと脳は納得する。「昨日の私」と「今日の私」は明らかにまつたく同じではないのに、「同じ私だ」と思つてゐるのも、これと同じです。
つまり、「昨日の私」と「今日の私」は「別のものだが同一である」といふ辻褄合はせができるものだけが、「時間」といふ概念を持つことができる。かういふ辻褄合はせができるのが脳であり、従つてやはり「時間」は脳の中にあるといふことになります。
長明は川を眺めて書いたのではなく、自分の脳の中に浮かぶ映像を眺めて、あの随筆を書いたといふべきでせう。

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