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私自身が十万億土の浄土です

kitasendo
一休禅師

少将問ふて曰く、然れば即ち浄土も阿弥陀も、皆此の五体を離れ玉はず。然るに十万億土と遠く隔て導く謂れ如何。
一休答へて曰く、十万億土と云ふは、遠きことにも非ず、此の五体を十万億土と定め玉ふなり。… 衆生の心、此の十万億土の煩悩に遠く隔られ、彼の阿弥陀仏を現し奉ることなし。故に此の衆生の機の前には、十万億土と遠く隔て導き玉ふなり。
(『あみたはだか物語』)


これは、小笹の少将為忠と一休禅師との問答です。

「浄土とか阿弥陀様とかがこの私の体とともにあるといふなら、どうして十万億土などといふ遠く隔てたところに浄土があると教へるのですか」
と少将が問ふ。

それに対して一休禅師は、
「この私の体が十万億土の浄土なのです」
と答へる。

「真実はさうなのだが、衆生(一般の凡夫)にはそれが分からない。なぜかといふに、体の中に十万憶の煩悩があつて、それが悟りを妨げてゐる。それで仕方なく方便として、十万億土の彼方に浄土があると諭してゐるのです」

これが禅師の悟つた阿弥陀様の本音なのでせう。浄土は遠隔の地にあるのではない、あなた自身のただ中にある、といふことです。

しかし普通の我々はそれが悟れない。なぜなら無数の煩悩があつて、自分の中には地獄しか見えないからです。

それなら、私を浄土にするには煩悩をなくせばいい。私の中の地獄は煩悩が見せてゐるのであつて、実体ではない。煩悩が消えれば、それとともに霧消するものです。

煩悩とは何でせうか。どうすればこれを消すことができるのでせうか。

仏教には仏教なりの考へと処方箋があるのでせう。私なりには、煩悩の主要な要素を「責任転嫁」と「固執」と捉へてゐます。

「私の今の状況は〇〇のせゐである」
と考へる。

〇〇は私以外の誰かであり、私を取り囲む環境です。責任はつねに〇〇にあるとする態度を責任転嫁と呼びます。

「私の考へは正しく、それ以外は間違つてゐる」
とも考へる。

私の考へは正しいので、それを変へることはできない。変はるべきものがあるとすれば、それは私と異なる考へのはうだ。従つて私には変わるべき選択の余地はない。これを固執と呼びます。

この2つの煩悩の故に、私は自分の中に浄土を感じることができない。

「私の正しい目から見れば、親の育て方がおかしかつた。子どもが私の言ふことを聞かない。上司が悪い、政治が悪い、官僚は腐敗してゐる、首相に統率力がない」
と、煩悩の主張は限りがない。このやうに主張する限り、私の周辺には(といふより実は私の内部に)収拾できないほどの地獄が広がる。

この煩悩を消すには、一体どうしたらいゝのか。私の結論をつねに「オープン」に保つことだと考へてゐます。

「私の考へは正しいかも知れないし、間違つてゐるかもしれない。他にもつと良い考へがあるかもしれない。もしさうなら、私はその考へに変はることがいつでもできる」
さういふ態度です。

「オープンに保つ」とはつまり、デジタルのやうに「0」か「1」かに限定しないといふことです。むしろ量子のやうに、波動にもなるし粒子にもなるといふ、選択可能な(ある意味で曖昧な)状態を維持することです。

量子は「自分は何者である」と固定的に考へないから、たぶん煩悩もない。その量子から成つてゐる我々に煩悩がある状態こそ、むしろ異常と言ふべきでせう。

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小林正観1
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