孤島の陰謀
11年前の映画「シャッター・アイランド」をアマゾンプライムで観る。筋立てとしては複雑。一見しただけでは、次々に出てくる伏線らしきものに幻惑されて、容易に真相が掴めない。
舞台は米国ボストン沖にある孤島シャッターアイランド。そこに精神異常の犯罪者を収容する病院がある。島はぐるりと断崖ばかりで、船着き場以外からの出入りは不可能な環境で、一人の女性患者が失踪した。
捜査のために連邦保安官テディ・ダニエルズが相棒の保安官と2人で島に入る。初めのうちは、テディが捜査を進めるにつれて、院内で不当な人体実験が行はれてゐるのではないかとの疑念が深まる。テディが病院長らを問ひ詰める。
ところが後半になると、院長らが「テディ自身がこの病院の患者なのだ」と言ひ出す。保安官などといふ幻想を抱いてゐる精神異常者に過ぎない。しかも同じやうな妄想に囚はれて、過去に何度も同じ行動をとつてゐると言ふのです。
テディは頭からそれを否定するが、院長らは証拠を提示しながら説得しようとする。そしてラストシーンは、どうも院長らの主張がまともらしいといふ感じで終はるのです。
ところが観終へても、どちらが正しいのか判然としない。前半の流れからすれば、テディは確かに保安官で、病院長らに騙され、人体実験に処されたのではないかとも思へる。一方、後半の展開からすれば、テディは操作のために島に来たといふ幻想を信じ込む精神異常者らしいと思へる。
映画の構成自体、どちらにも解釈できるやうな仕組みになつてゐるのです。テディが正しいとすれば、この映画は陰謀論を描いてゐる。病院側が正しいとすれば、テディは単なる精神異常といふ病気で周囲を振り回してゐることになる。
テディが主人公なので、観る者もストーリーの8割方は彼の立場に立つて映画に参加する。自然の成り行きです。
だから映画の終盤に至るまで、
「病院は怪しい、病院長らは嘘をついてゐる、テディを人体実験に処さうとして陰謀を巡らしてゐる」
とテディの頭で成り行きを見てゐるのです。
ところが、終盤にきて俄かに、
「テディは事実を見てゐたのではなく、自分の勝手な妄想を事実と思ひ込んでゐただけかも知れない」
といふ視点にぶつかるのです。
私の外に私を騙さうとする陰謀があるのか。それとも、それを陰謀だと妄想する私が病気なのか。作り物の映画でさへ判然としないとすれば、現実ではどうだらう。事実は小説より奇なり、か否か。

私が日常的に見てゐるさまざまな現実があります。その現実が、私の目には、どうもおかしい、怪しい、不正だ、といふ気がするとき、それは「自分が正しい」といふ前提に立つてゐます。
「正しい自分の目に『おかしい』と見える現実は、間違つてゐる」
と思ふわけです。
ところがそれなら、「自分は正しい」と主張する根拠は、どこにあるのか。
自分は精神の病気ではない。理性は正常に働いてゐる。大抵の人はさう思つてゐるでせうが、テディもさう思ひ込んでゐたのです。それなら、私が病気でないといふ保証はどこにあるのか。
これは、いくらなんでもやや極端な自問のやうにも思へます。しかし、正常な人は自分を正常だと思ふ。異常な人も自分を正常だと思ふ。すると、誰が一体本当に正常なのか。「シャッターアイランド」は、どうもおかしな世界に引つ張り込んでしまひます。
「自分が正しい」と主張する根拠は、どうも自分の頭(脳)の中にある。
有神論者は「神が存在する」と考へることが正しいと考へる。反対に、無神論者は「神は存在しない」と考へることが正しいと考へる。無神論者を有神論者に変へるとは、彼の頭(脳)の中を変へるといふことだと言つてもいゝ。
さうすると、有神論が正しいのか、無神論が正しいのか、それを客観的に裁定する何かは、各自の頭(脳)の外にあるのだらうか。映画の結末が「陰謀論」とも「病気」とも判別がつかないまま終はつたと同様、我々の現実も簡単には判別がつかないやうに思へてきます。

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