この世界を構成する複雑な連鎖の神秘
ブラントが「天狗のところへ行くかわりに、すぐに医者へ行くほうがよくはなかったか」と問うと、彼女は「そうかも知れませんけれども、天狗さまにお詣りしませんでしたら、あなたさまにもお目にかかれませんでしたろう」と答えた。 「以来私は迷信打破の努力をやめることにした」とブラントは書いている。 (『逝きし世の面影』渡辺京二) |
この本は、江戸時代末期から明治時代にかけて日本に在留した西洋人たちが残した観察記録をいくつかのテーマに分けて収録したものです。引用の箇所が出てくるのは第13章「信仰と祭」。
このやり取りの前後を少し補つて説明しませう。
ブラントは1862年から75年までドイツ公使として在日した人物で、日本に対してはなかなか辛口の批評家でした。
その彼があるとき、2人の医師を同行してある人物の墓を見物に出かけた折、一人の老婆が青銅の天狗像を熱心に足でさすつてゐる場面に遭遇した。聞くと、彼女の孫の足が悪いので、天狗さまに願をかけてゐるのだといふ。
その孫が下の茶屋で待つてゐるといふので、ブラントは2人の医師にその子を診察してもらつた。少年はその縁で、間もなく医学校附属病院で手術を受けることになり、幸ひ完治するに至つた。
後日、老婆がお礼に来たときのやり取りが、冒頭の引用箇所です。
プロテスタントキリスト教の目を持つブラントから見ると、老婆の願かけは迷信以外の何ものでもない。孫の足が治つたのは手術のお蔭であつて、天狗さまの効験などであるはずがない。だから天狗さまなどに頼るより、初めから最新医学の力に頼るはうが賢明だつた。彼はさう考へたわけです。
ところが、老婆の頭の中はもう少し高度に働いてゐた。こんなふうです。
確かに、直接的には孫の足は手術によつて治つたのです。それは有り難い。しかしその手術に導いてくださつたのは天狗さまだと思ふんです。
私はそんな高度な手術の技術があるなど知らないし、施術してくれる医師のつてもありません。天狗さまはどうすれば私の願ひを叶へてやれるかを知つて、あの墓で私とお医者さんとを遭はせてくださつたのではないでせうか。
私が天狗さまに願をかけるのは霊的な手続きです。天狗さまが医師2人を連れてきて施術の運びとなるのは現実的な手続きです。この霊的と現実的との橋渡し役をしてくださつたのが、天狗さまであると思ふんです。
これが老婆のロジックです。
目に見えない原因があつて、目に見える結果が出てくる。目に見えるのは結果だけですが、これには必ず何らかの目に見えない原因があるはずだ。かういふ理解を「因果律」と言ひます。老婆はこの因果律をきちんと理解してゐたと見えます。
ブラントはキリスト教で教へる「唯一神」を信じてゐたでせう。彼にとつてはその神だけが信ずべき方であり、人間の願ひを聞いて叶へてくださるのもその神だけであると信じてゐたでせう。
だからその神以外の何かに願をかけるなど、迷信以外の何ものでもない。天狗さまに頼るなどは俗習といふべきで、1日も早く排除しなくてはいけない。さう思つてゐたのです。
ところが老婆の言葉を聞いて、考へが(少し)変はつた。
どの宗教が素晴らしいかといふふうに見れば、キリスト教には高度で緻密な神学がある。他の宗教にはない「神の子・救ひ主」がキリスト教にはある。
それに比べて、天狗さまとは一体何者か。そんなものが本当に神的存在として我々を助けてくれるのか。それを保証する神学はあるのか。あまりにいかがはしい。
しかし「宗教心」あるいは「信心」といふ観点で見れば、老婆の中には「宗教心」が生きてゐる。この世界を構成する複雑な連鎖の神秘を正確に理解してゐる。かういふ「宗教心」は緻密な神学よりも優れてゐると言へないだらうか。
たぶん、ブラントもそのあたりに何かを感じたのでせう。「今後は迷信打破の努力をやめよう」と考へたのは、そのためです。
「この世界を構成する複雑な連鎖の神秘」
この高度な「因果律」を理屈ではなく体感できる感性こそ宗教生活の本体ではないでせうか。

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