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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「モノ自体」を知ることはできない

2021/02/23
思索三昧 0
モノ自体 

哲学者のカントは
我々の理性は『モノ自体』を知ることはできない
と考へた。

我々が「モノ」を認識するとき、その認識は知覚の束だとすれば、それぞれの人が違ふ知覚の経験をすれば、認識も人によつて違ふ。すると普遍的な真理などは存在しないことになる。

さういふヒュームの懐疑論を克服しようとして、カントはかう考へた。

確かに認識は知覚の束ではあるが、我々はその束を直接に認識してゐるのではない。我々には先天的な認識の形式(パターン)があつて、それを通して間接的に認識してゐる。その形式が同一であればこそ、我々は共通の認識を得ることができる。

これで懐疑論を克服はできたのですが、その一方で、「モノ自体」と私との間に「認識のパターン」が介在することになるため、「モノ自体」を知ることはできない。さういふ結論に至つてしまふのです。

確かにさうだなと、私も思ふ。

認識のパターンを通して私に届くものを「情報」と呼んでみます。この情報を受けて、我々は「あれはかうだ」「これはあゝだ」と、あたかも「あれ」とか「これ」といふ対象(モノ)自体を分かつたやうな気になつてゐる。ところが、本当に「かう」であり「あゝ」であるかといふことは、実は分からないのです。

ここからは私なりの解釈で、まづは一つ、身近な例を挙げてみませう。

ラッキー

我が家に愛犬ラッキーがゐます。夜寝るとき、一緒に寝ては毛だるまになるので、彼を独り台所に残す。そこに彼の寝床があります。

私が台所を出ようとすると、彼はいつも私のはうをぢつと見つめる。その目はいかにも「私独りを残して行くんですか。寂しい」と訴へてゐるやうに見える。

しかし私が彼の目から読み取つてゐるのは情報でせう。

「あゝいふ目は、かういふ気持ちに違ひない」
といふ私の認識パターンなのです。

本当に彼がさういふ気持ちで見つめてゐるのかどうか。それは私には分からない。

これがカントの言ふ
「モノ自体を知ることはできない」
といふ意味です。

もう一つ、別の例。すでに1年以上続いてゐるコロナ禍です。

ウィルスは肉眼で見えない。中国武漢から広がつたとも言はれるが、本当のところは分からない。

武漢が限りなく犯人くさいといふ人(情報)もゐれば、断定はできないと判断を控へる人(情報)もゐる。本当にそこから始まつたのだとすれば、当事者だけは真実を知つてゐるとしても、それを正直に証言しない限り第三者には分からない。

マスク 

戸外に出るとき、今や9割以上の人はマスクをしてゐるが、マスクは伝染防止に役立たないといふ人(情報)もゐれば、1枚では足りないから2枚重ねよといふ人(情報)もゐる。

医学的には、PCR検査陽性はあくまでもウイルスが検知されただけで、必ずしも「感染」ではない。しかし、政府、マスコミは陽性者数だけを取り立てて発表し続けるので、陽性と診断されただけで世間の目を怖れて自殺する人さへある。

特定の情報が強調されれば、主要地域に非常事態宣言が出され、GOTOは中止され、人々は飲食旅行を控へるやうになる。飲食や観光関連の業種は倒産の瀬戸際に追ひ込まれる。

誰一人ウイルスの姿(モノ自体)を見てはゐないのに、認識のパターン(情報)によつて完全にコントロールされてゐる。

昔から「風評被害」といふ言葉はあつた。「風評」とは「モノ自体」ではなく、まさに「情報」でせう。

現在のやうに情報の量が増えれば増えるほど、「モノ自体」よりも「情報」のはうがはるかに大きな力を持つやうになつてゐる。といふか、「情報」と「モノ自体」の区別もつかず、「情報」をもつて「モノ自体」だと思ひ込む事態になりつつあるやうに見えます。

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