概念の力
「こんにち西洋の力は東洋を月とスッポンほどにひきはなしてしまったが、何百年か前はこうではなかった。なぜ西洋は東洋をひきはなしたか」 と、福沢はいう。 「それはいわゆる産業革命の力でしょう。蒸気の動力でもって物をつくる、物を運ぶ。これではこっちはどうにもならない。しかしそれだけではなく、もっと大きな原動力が西洋を興らせた。それがなにかということを私は考えた」 |
これは司馬遼太郎の小説『峠』の一節です。福沢とは、福沢諭吉。対話の相手は河井継之助。越後長岡藩の藩士で、のちに家老にまで登り詰めた。当時としては革新的な藩政改革を推進した英明の人です。(『峠』はこの河井を主人公とした小説です)

福沢の言ふ「西洋のもつと大きな原動力」とはなにか。福沢は続けて言ふ。
「この国内にいて西洋の書物を読むに、リバーティという言葉とライトという言葉がよく出てくる。これにちがいないと思ったが、その意味がどういうものか、まったくわからない。河井さん、わかりますか」 「自由と通義(権利)ですな」 「ほう」 福沢は、目をむいた。 「あなたは、なぜそれがわかっています」 「冗談じゃない。あなたの著書の西洋事情にそれが書いてある」 「そうだった」 福沢は、くすくす笑った。どうやら酔ってきたらしい。 |
米国見学中、案内者たちは工場を見せて、得意顔で蒸気の説明をしたり電気の説明をしたりした。しかし福沢たち日本人にそんなことは興味がない。それくらゐの知識はすでに文献によつて熟知してゐた。
知りたかつたのは、2つの言葉の意味だ。ところがそれを案内人にしつこく尋ねても、誰もまともに答へてくれない。
「しつこく尋ねても黙殺するほどに、彼らにとつては普通の概念なのだ」
と福沢は思つた。
その後も聞きまはつてやつと分かつたその意味を、福沢は『西洋事情』を書くに当たつて、かう訳した。
「リバティー」は「自由」。
「ライト」は「権理」。
最初「リバティー」は「御免」と訳さうとした。「殺生御免の場所」と言へば、「魚釣りなどしてもよろしい場所」といふ意味だつた。
ところがこれでは、なんだか権力者からお慈悲で許されてゐるやうで語感がおもしろくない。そこで仏教語から拝借して「自由」とし、「自由は万人にそなわつた天性である」と説明した。
「ライト」も最初は「通義」と訳したが、どうもピンとこない。そこでこれも変更して「権理」とした。
「人間の自由はその権理である。人間はうまれながら独立して束縛を受けるやうな理由はなく、自由自在なるべきものである」
と福沢は記した。
以上は『峠』の記述を拝借しつつ要約したものです。
西洋の原動力を産業革命よりも2つの概念にあると見抜く眼力。さすが天下の福沢先生だと思ひます。概念は確かに我々の人生の根底にあつて人生を左右するものです。
概念は言葉なしには説明できない。国語に適当な言葉がなければ新しく作り出さねばならない。「権理(のちに権利)」はその例でせう。
一方「自由」といふ概念。福沢がこの言葉を仏教用語から拝借したと言つてゐる通り、「自由」といふ言葉と概念は仏教の歴史とともに昔からあつたのです。ところが、どうも福沢はこの言葉の意味を微妙に変へたやうに思へます。
福沢は「御免」といふ訳語を捨てたものの、採用した意味はそれに近いものです。「~することを許される」「~することを妨げられない」といふやうな意味合ひです。
ところが、仏教的に読み解けば、
「自らを由(根拠)とする」
といふ意味です。
すると、「自由」とは
「自らの意思で、(右か左かを)選択する」
といふことになる。
そもそも「選択」は誰がするかと言へば、自分以外にそれをできる者はゐない。「これこれかういふ事情で、やむを得ず」と言つたとしても、最終的にその事情を受け容れるといふ選択をしたのは自分です。
自分の意志で選択する限り、その結果についても自分が責任を持つことになる。自分で選択しておいて「お前のせいで」と責任を転嫁することはできない。
さう考へると、福沢は
「人間の自由はその権理である」
と言つたが、むしろ
「人間の自由はその責任である」
といふのが、元の意味に近いやうに思はれます。

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