民を視ること傷めるが如し
哲学者が王となるか、王が哲学をやるか、このどちらかでないと国は不幸になる。 (『国家』プラトン) |
プラトンが理想とした王とは、理知(ロゴス)を体現した人物です。プラトン自身は遂にさういふ王が統治する幸福な国を作れないまま、アカデメイアで弟子を教へながら息を引き取り、そこに埋葬された。
しかし我が国に目を転じれば、プラトンの理想に近い名君は実存した。その代表者の一人が、米沢藩9代藩主の上杉鷹山です。彼の統治を見ると、昨今の民主主義にいささかも見劣りしない。どころか、ある面ではそれよりも優れてゐるとさへ思はれます。
そもそもプラトンは統治制度を5段階に分け、哲人王による統治を「優秀支配制」と名付けて最上位に置いた一方、民主主義は下から2番目の劣悪体制と見做したのです。現今の民主主義を見てゐると、確かにそれを否定しきれない。
鷹山は米沢藩主の血筋ではない。九州は高鍋藩の藩主秋月家の次男として生まれた。当時は全国どの藩も財政難に喘ぎ、藩政改革を余儀なくされてゐた時代です。
生き残るために名君となり得るDNAを全国各地に探し回る中、米沢藩は英明の鷹山に目をつけ、養子として迎え入れたのです。そしてこれが見事にヒットした。
10歳で養子となり、17歳で藩主となる。その7年間、江戸屋敷において君主となるための教育を受ける。そのときの教育係が細井平洲です。

平洲は
「民を視ること傷めるが如し」
と鷹山に帝王学を教へる。
「苦しんでゐる民を視たとき、自分の苦しみとして感じなさい。さうでなければ、君主になつてはなりませぬ」
さう諭すと、若い藩主候補生は「本当に民百姓が可哀さうだ」と言つて涙をぽたぽたとこぼしながら聞いたといふ。
かういふ教育を今風に解釈すれば「エリート教育」と言つてもいいでせうが、民主主義の世の中には馴染みにくい。誰もが平等なのに、どうして統治者だけがそんな父母のやうな心を持たねばならないのか。統治者と言つても別に特別ではないと、誰もが思ふ。
鷹山は19歳で初めて、藩主としてお国入りする。初めから藩主であり、それは生涯変はらない宿命です。
72歳で没するまで、実に半世紀以上に亘つて藩の主人として改革に責任を持ち続ける。それでこそ初志貫徹、改革が実を結ぶのです。
ところが、かういふ関はり方を、民主主義は原理的に許容しない。統治者は主人ではなく代表者ですから、一定期間をもつてローテーションするのがよいとするのです。
能力と財力があり、それなりの志があつて一国の大統領や首相になつたとしても、その任にあるのはせいぜい数年。その期間が終われば、また一人の市民に戻るのです。
ところで、藩主と言つても、独裁者ではない。若き藩主の果断な改革を歓迎する若手の下級藩士や領民がゐる一方で、昔ながらのしきたりを墨守しようとする旧臣の派閥もある。下手をすると「主君押し込め」と言つて、臣下によつて藩主が牢屋に押し込められ、そのまま獄死するといふ例もあつたと言はれます。
米沢藩でもそれが起こる。鷹山23歳のとき「七家騒動」が起き、主だつた旧臣たちが改革批判の訴状を直接鷹山に提出したのです。鷹山にとつても譲れない戦ひです。
このとき彼は断固とした態度を崩さず、首謀者2人を切腹、その他を蟄居に処し、後に判明した黒幕を斬首とした。旧臣派からすれば過酷な処分でせうが、藩主としての断固たる責任遂行です。
代表的統治者には、かういふことはできない。法律に則つて、法律の範囲で動くしかないでせう。
その一方で、鷹山にかういふ逸話が残つてゐます。
領内で誰かの処刑が行われる日。処刑が執行されるといふことは、藩主たる自らの不徳の故である。
よつて、その日は断食をするか、お粥程度で過ごす。「処刑が終はりました」との報告を聞くまで、狭い一室に籠り、正座をして動かない。
これを「哲学をした王」あるいは「理知を体現した国の守護者」と言つていいでせう。否、それ以上かも知れない。
ともかく、50年の間に米沢藩は巨額な借金を返済し、逆に蓄へを残すに至ります。いくつもの殖産興業を試し、成功したものもあれば失敗に終はつたものもある。福祉政策も行き届き、領民の生活は安定する。
明治11年、西洋人として初めて東北を旅行した英国人女性イザベラ・バードが『日本奥地紀行』で、米沢の印象をかう記してゐます。

米沢平野は、まつたくエデンの園である。米、たばこ、麻、茄子、きうり、あんず、ざくろを豊富に栽培してゐる。実り豊かに微笑する大地であり、人々は圧迫のない、自由な暮らしをしてゐる。まさに、アジアのアルカデア(桃源郷)である。 |

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