そこに何の問題があるの?
ダウン症かもしれないし、ダウン症じゃないかもしれない。でもそれに何の問題があるの。今日あなたはこんなに大変な出産をして、こんな素敵な子どもが生まれた。そこに何の問題があるの。 |
子どもがダウン症を持つて生まれた。父親はプロ野球・DeNAの前監督、アレックス・ラミレスさん。母親の美保さんは赤ん坊の問題を告げられたとき、「スペシャル・ニーズのお母さんになれるかしら」と不安に襲はれ、ひとしきり泣いたといふ。
その美保さんに向けてラミレスさんが言つた一言が、冒頭の言葉です。
私が特に考へさせられるのは、
「そこに何の問題があるの?」
といふ一言なのです。
一見すると、悲嘆にくれる妻を慰めようとする夫のちょつと力んだ言葉にも思へる。もちろん、慰めようとする優しさもあるでせう。しかし、本質はその言葉通りの意味であつて、何の粉飾もない。
「ダウン症だつたら、何か問題があるの? 事実は素敵な子どもが生まれたといふことだけであつて、何の問題もないぢやない」
さう言はれると、確かに
「何が問題なんだらう?」
と、改めて考へてみることになる。
確かに、特段の異常のない子どもに比べれば、育てるのにいろいろな難しさがあるだらう。本人も大変だらうと心配だし、周囲にもふつうの子のやうに自然に紹介できさうにない。
さういふ諸々を考へれば、気持ちが塞ぎ、悲しい気持ちになるのは、ふつうの感覚では避けがたいと思はれる。しかし、ラミレスさんはどうもその感覚が違つてゐる。ふつうではない。
「問題」はどのやうに生まれるのか。ある事態を、ある人はなぜ「問題」だと思ふのだらうか。
例へで考へてみる。
「私は右にしか曲がれない」
と考へてゐる人がゐるとします。

その人があるとき、左にしか曲がれない道に遭遇したら、どうなるか。この事態は「大問題」です。
つまり、
「私はこのやうにしかできない、物事はつねにかうあるべきだ」
などと考へてゐる人にとつて、
「このやうにできない、かうではない」
といふ事態は「問題」になるのです。
すると「問題」を解決するのに、二通りの方法がある。
「左にしか曲がれない」といふ状況を何らかの方法で変へてしまふか、あるいは「右でも左でも曲がれるよ」といふ私に変はるか。そのどちらかです。
ラミレス夫妻の場合、「左にしか曲がれない」といふ状況を変へる選択肢はない。ダウン症で生まれた我が子を元に戻すことも、他の正常な子に取り替へることもできないのです。
それなら、「右でも左でも曲がれる」私に変はるといふ方法しかない。つまり、生まれた子どもがどんな子であれ、私の子には変はりない。さう思へる私に変はることです。
ラミレス夫妻のその後を見てゐると、美保さんはだんだんと「右でも左でも曲がれる」人に変はつていつた。それはラミレスさんの言葉と態度とに刺激を受けてのことです。
ところが、ラミレスさん自身は最初から「右でも左でも曲がれる」人だつた。だから彼には「問題」が生じやうがない。
「何が問題なの?」
といふ何の粉飾もない言葉が出てくるのは、彼自身の中に本当に「問題」がないからです。
ラミレスさんがさういふ人だからこそ、美保さんは夫の姿を見ながらだんだんと「左にも曲がれる」人に変化していくのです。もしラミレスさんが「右にしか曲がれない」人なのに、妻を慰めるためにだけ「左にも曲がれるよ」と言葉で言ふ人であつたなら、妻は決して「左にも曲がれる」人に変化できないはずです。
ラミレスさんはなぜ元々「右にも左にも曲がれる」人だつたのだらうか。それが私にはよく分からない。私自身も「右にしか曲がれない」と思ひ込むタイプの人間だからです。
ラミレスさんは、私の目には「特異な人」に見える。「右にも左にも曲がれる」やうな拘りのない人は、なかなかゐない。何か生まれながら意識がふつうとは違ふのです。
拘りのない人には事態が「問題」とならないから、「問題」にぶつからない。事態を難なく越えてしまふのです。
かういふ人がゐてくれてこそ、
「我々が『問題』と思つてゐることは、実は『問題』ではないみたいだ」
といふことに気がつかせてもらへる。

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