幼児は全身が一つの感覚器
前回の記事「幼少期7年の葛藤」でシュタイナーの人間観を紹介しました。この7年間について、彼はもう一つとても興味深いことを言つてゐます。
この時期の子どもたちは、全身が一つの感覚器だと言ふのです。
大人である我々は、人間には五官があつて、そのそれぞれが違ふセンサー機能を持つてゐると考へてゐます。例へば、食べ物の味は味覚で知覚し、食べ物の匂ひは嗅覚で知覚してゐる。舌で匂ひは分からず、鼻で味は分からない。さう思つてゐます。
ところが幼児たちは、全身で味も匂ひも感じてゐる。といふより、すべての感覚刺激を一つに統合した形で感じ取つてゐる。
それで、この時期の教育は教育者(もちろん父母も含めて)が特に細心の注意を払はなければならない。例へば、シュタイナーはこんなふうに言ひます。
小さな子どもは、まだ好奇心を持っていません。小さな子どもに対して、大人は自分という存在そのものによって印象を与えなければなりません。 (『人間理解からの教育』ルドルフ・シュタイナー) |
小さな子どもは好奇心旺盛ぢやないかと思へます。しかしここでいふ好奇心とは、知識欲に基づいた好奇心のことです。
知識欲といふのは、知りたい「自分」と知りたい「対象」が別々です。小さな子どもにおいては、対象が自分と別ではない。すべては自分の内面にあるといふ感覚なのです。
だからこの時期の子どもにとつて、目の前の大人と自分とが別々ではないので、その大人の存在そのものを受け取るのです。
大人がどんな考へを持つてゐるのか。物事に対してどんな見方、感じ方をするのか。さういふ内面がその人の表情や仕草、醸し出す雰囲気となつてすべて外に現れる。小さな子どもはそれを受け取つて模倣するのです。
さうであれば、大人(父母も教育者も)は小さな子どもに「何を教へようか」と考へるべきではない。小さな子どもはさういふことに関心もないし、影響も受けない。むしろ、その大人が「どんな人として生きてゐるか」を全身で感じ取るのです。
この時期の子どもには、文字などを教へる必要はもちろんないし、道徳でさへ教える必要はない。大人自身がどんな良心基準で生きてゐるか。それがこの時期の最も核心的な教育です。
尤も、このやうな態度は小さな子どもを相手にするときだけではなく、大人同士の関係においても、実は普遍的に最も重要なことだと思ふ。
小さな子どもは好奇心がないから、大人はすでに自分の考へが固まつてゐるから、いづれに対しても何かを「教へる」といふのは極めて難しい。「私がどう生きてゐるか」だけを第一に考へることです。

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