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「汝自身」を知り、その先へ

kitasendo
汝自身 

アイルランドの詩人、オスカー・ワイルドがこんなことを書いてゐます。

古代ギリシャ、デルポイのアポロン神殿の入り口には「汝自身を知れ」と書いてあつたが、キリストが扉を開いた新世界の入り口には「汝自身たれ」といふ文句が書かれてゐた。

紀元前の時代は「私とは何者か」といふことを探索する段階であり、紀元後の出発とともに、いよいよ探し出した「私の正体」を実体化していく段階に上がつた。そのやうにも読めます。

それにしても、キリストが新しい世界の扉を開いてからすでに2000年あまりが過ぎました。我々は果たして「私の正体」を悟つて、それをある程度でも実体化できてゐるのか。いまだにアポロン神殿の入り口に立ちすくんだままでゐるやうな気がします。

「私とは何者か」といふことを知ること以上に、重要なことはない。と同時に、これほど難しいこともないのです。

どうしてアポロン神殿の入り口にあんな神託が刻まれたかと考へると、我々は大抵自分のことならよく知つてゐるやうに思ひ込んでゐるが、その実、ほとんど、正しく知らないからでせう。

私は、他人の顔なら毎日眺めてどうのかうのと思つてゐるのに、自分の目で自分の顔を見ることは、生涯遂にできない。それと同様に、我々は自分の外を見るのは得意なのですが、自分の内側を見ることにはあまり長けてゐないのです。

何億光年離れた星のこと以上に自分のことをよく知つてゐるかと自問すると、甚だ疑問です。

我々は身近な人と付き合ひ、歴史を学び、大宇宙を観測する。かういふ私の外を知るのは、実は自分を知るためです。ところが大抵は、外を知るだけで満足してしまつて、そこから自分自身を知らうとはしない。

外のものはそれ自体を見ることで分かつてくるのですが、私自身についてだけは私を見ることによつては分からない。私自身について知る唯一の方法は、私の外をよくよく見ることなのです。意識は観察の主体なので、自分自身を直に観察することができないのです。

私が自分の今の顔を見る唯一の方法は、鏡を覗き込むことです。その場合は、そこに映つてゐるのが自分だと思ふので、自分の顔として観察します。

ところが、私の周りで展開するもの、社会の動きも、歴史の流れも、物質の現象も、それらを自分が映つたものとは思はない。だから、ただ客観的に見るだけで満足し、それで済ませてしまふのです。

昔の人は、「歴史」を「鏡」と表現しました。現代の我々よりはいくらか、「汝自身を知れ」といふ神託の意図に沿つてゐたのかな、と思ふ。

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Admin:kitasendo