俺は反省なんかしない
小林秀雄はなんにもしやべつてなどゐない。そこにはかれによつてしやべられたなんらかの実体があるのではない、かれの生活といふ実体を蚕の糸のやうに吐き出す機能があるばかりである。くどいが、かれの文章はしやべられたことばではなく、しやべる口なのだ。ことばは生活のかはにある。 (『小林秀雄Ⅰ」福田恆存) |
なるほど、さういふ見立てがあつたか。さすが恆存さん、うまいこと言ふなあ。
当代随一の評論家であり、難解ながらも数々の名作を残したその人が、実はなにも喋つてゐない。どういふことでせうか。
小林は自分の思想や意見を書いたのではない。彼はただ、彼の「生活」を蚕のやうに吐き出し続け、それを紡ぎ続けたに過ぎない。
実は思想や意見などを書くより、自分の生活をそのまま書き出すはうがよほど迫力がある。生活を書くと言つても、もちろん、日々の生活を書くのではない。嘘偽りなく真摯に生きてゐれば、蚕が自分の体から糸を絞り出すやうに出てくる言葉があるのです。
小林の言葉が否応なく、その他大勢の言論人の言葉の中で一頭群を抜いてゐると感じるのは、そこに理由がある。さう思ふと、納得です。
先の大戦が終はつた直後、多くの知識人、言論人たちがそれまでの自分たちに非があつたと「反省」する中、小林だけは違つた。
「俺はあいつらのやうに利口ぢやないから、あの戦争を反省なんかしない」
と言ひ切つたのです。
思想を語るだけの人は「利口者」のやうに右顧左眄するが、生活の言葉しか語らない人は一貫してゐる。さういふ人の言葉は、まるで慈雨のやうに心に沁み込むのです。

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