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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

予言のジレンマ

2021/01/27
神は摂理する 0
原理講論 聖書
予言のジレンマ 

主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
(旧約聖書・アモス書3:7)


「預言」とは、神からの言葉を「預かる」といふことです。その中には「誰それにこの言葉を伝へよ」といふものもありますが、未来に起きることを告げる、所謂「予言」もあります。

聖書の代表的な予言は、ノアの大洪水のときに示されます。

40日40夜の大雨があがり、100日以上たつてだんだんと水が引く。もうそろそろ箱舟から出ても大丈夫かといふときに、水の引き具合を確かめようとして、ノアが箱舟の窓からハトを3回放つのです。

第1のハトは、そのまま戻つてきた。第2のハトは、オリーブの葉つぱをくわえて戻つてきた。第3のハトは、ついに戻つてこなかつた。

しかしこれらは、ただ単に水の具合を見るためではなかつた。この一連の行事の中に、人類史全体を見通す最も重要な予言が仕組んであると『原理講論』は見るのです。すなはち、第1のハトは堕落したアダム第2のハトは初臨のキリスト(イエス)、そして第3のハトは再臨のキリストをそれぞれ象徴してゐると見ます。

この洞察は見事だと思ふ。言はれてみると、確かにこれ以外にはないといふ気さへします。それを認めた上で、しかし私には「予言」に対する不可解があるのです。

そもそも神はなぜ、何事かを為すとき、その前に必ずそれを誰かに知らせようとなさるのか。そしてその「誰か」とは誰なのか。それが根本的な疑問です。

ノアの予言に沿つて疑問を整理してみませう。

ノアの時点において、第1のハトの事件はすでに過去のことです。エデンの園でアダムが堕落したので、神の理想はそのときに成就しなかつた。だから、アダムの身代はり(同類のハト)を必ず送る。それが予言になります。

最初の身代はりが、第2のハトです。このハトはノアから2000年余りのち(聖書的な年数で)に来ることになる初臨のキリストです。

しかし今の我々が知るやうに、この方は十字架で殺され、再臨を約束して昇天されます。その約束の象徴がオリーブの葉つぱであつたと分かる。

そしてその約束の通りに降臨されるのが、第3のハトである再臨のキリスト。この方は必ずこの世で神の理想を回復されるはずなので、そのことを箱舟に戻つてこなかつた第3のハトが象徴してゐるのです。

ところが、このやうな高度な象徴による予言を、一体誰が理解できるといふのか。ほとんど誰も悟れはしないやうな予言に、一体何の意味があるのか。かういふ疑問が生まれます。

原理講論』の「メシヤの降臨とその再臨の目的」に、以下のやうな一節があります。

「したがって、人間の責任分担の遂行いかんによって生ずる両面の結果に備えて、神はイエスのみ旨成就に対する預言を二とおりにせざるを得なかったのである」

ここで言ふ「人間」とは誰のことでせうか。イエスをキリストとして信じて受け入れるかどうかを託されてゐたその時代の当事者たちのやうにも思へます。

しかし、ノアの予言にある第2のハトがイエスのことだと悟つてゐた者は彼らの中に多分誰もゐなかつた。それなら、あの予言は何の意味もないのではないか。

それを意味あるものにするには、この「人間」を特定する必要がある。つまり、ノアの予言をはつきりと理解してゐた「人間」です。

その「人間」とは、イエスご自身以外にはない。

3羽のハトが誰なのか、それを悟つた人は歴史の中で多分2人しかゐないと思ふ。イエスと、もう一人『原理講論』でこのことを解明した人です。

イエスご自身がもし、自分のことを「第2のハト」だと悟つてゐたとすれば、かう考へたでせう。

「私はオリーブの葉つぱをくわえて箱舟に帰るハトになつてはいけない。もしさうなつてしまへば、神はまた第3のハトを送る苦労をなさらなければならない」

だから、神のみ旨成就に対する二とおりの預言のうち、どちらが成就するかはイエスにかかつてゐた。さういふ結論になります。

み旨成就は、もちろんイエス独りで為せるものではない。彼を信じて受け入れる者たちがゐなければなりません。しかし、ノアの予言との関連で考へる限り、第一の責任はイエスにあつたと結論するしかないでせう。

これは、予言の難しさを考へさせます。

西暦2000年を前にして、ノストラダムスの大予言がフィーバーしたことがあります。彼の予言は四行詩から成つてゐて、表現はあまりに象徴的で難解。特定の解説者が出てきて解読を試みたものの、結局「天から下る恐怖の大王」とは何だつたの? 

期限が過ぎてみて、「あれがさうではないか、これがああではないか」と、いろいろな推理がなされるだけです。ノストラダムス自身には「恐怖の大王」が何なのか、見えてゐたのか。それも分からない。

当時、ノストラダムス以外にもいろいろな予言書が話題になりました。例へば韓国の『格菴遺録』(著者は南師古)。これにも解説者が出てきて、分析の結果「的中率はほぼ100」などとも言はれた。

しかし、「的中」といふのは結局それが起こつてみてから分かること。事前に分かつてそれを止めることは、ほぼできないのです。

これが予言のジレンマですね。それでも摂理を実行する前に必ず予言をされる神。その心中をまだ全体的には把握できません。

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