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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「善悪知る木」の時代に幕を下ろす

2021/01/25
私の中の世界 0
原理講論 聖書
善悪知る木 

正邪善悪の規律が一番厳しいのは、たぶん宗教の世界でせうね。

仏教では、肉食はいけない。妻帯もいけない。できるなら出家をして、苦行難行、千日回峰ができれば最良。

キリスト教でも、カソリックでは今でも基本的に聖職者は司祭も修道女も結婚できない。キリストに自分の生涯を清く捧げるのが最良の道となつてゐる。

そもそも宗教の目指すところは何かと考へれば、悟りや解脱に至る。あるいは救済を受ける。そのためには、この肉体が邪魔になる。だから、難行苦行で肉体を打つて弱体化させ、力づくで心の言ふことを聞かせるやうにする。

しかし、かういふ宗教の道は「善悪知る木」の道ではないかと思ふ。

聖書の初め(『創世記』)に2本の特別な木が出てきます。エデンの園の中央に並んで生えてゐたといふ「生命の木」と「善悪知る木」です。

原理講論』では、この2本の木はいづれも象徴であるとし、「生命の木」を「完成したアダム(男性)」、「善悪知る木」を「完成したエバ(女性)」と解明してゐます。非常に見事な謎解きだと思ふ。

しかし、私が長年腑に落ちないのは「善悪知る木」です。完成した女性にどうして「悪」の名が付くのか。「完成」といふ概念に「悪」の要素があるとすれば、神の中に元々「悪」のイメージがあつたといふことになりはしないか。

それで私なりには、「善悪知る木」はやはり人間堕落ののちに賦与された名前だらうと思ふのです。そしてこの名は独り女性のみを指す言葉ではなく、男女問はず、堕落したのちのすべての人間に当てはまる。

宗教はこの堕落の問題を克服して元の姿を回復しようとして現れたものだとします。すると、宗教は何よりもまづ「善」と「悪」とを分けねばならない。

悪を離れて、善を為せ
これが宗教の第一の教へとならざるを得ないのです。

そこで、「肉欲に従ふな」「出家せよ」「苦行に励め」と教へることになる。

このやうな教へは(少なくとも表面上は)
自分を愛してはいけない
と主張してゐるやうに見える。これが問題です。

宗教が「博愛主義」を唱へても、実は自分自身を愛してゐない。かういふ矛盾さへあり得ます。

ところが、「善悪知る木」」の道は、復帰の道なのです。復帰の道はやむを得ず「自己否定」をさせるのですが、それ自体が目的ではない。

本当の目的は「生命の木」に至ることです。この名に「悪」の概念は微塵もない。アダムその人は罪を犯したかもしれないが、「完成した人(男性)」のイメージは崩れず、元のまま残してゐるのが「生命の木」といふ理想です。

宗教が先頭に立つて辿てきた「善悪知る木」の道はいつか終はりを告げ、「生命の木」の時代へ入つていかねばならない。

その時代になると、
「肉体を打て」
とは強調しなくなる。

反対に
自分を愛しなさい。そして自己完成しなさい。
と主張し始める。

どうせ誰でもいづれは歳を取つて体が弱り、難行も苦行もできない時を迎へます。「善悪知る木」の時代には早晩幕を下ろすしかないのです。私も最近、それを感じます。

どうせ幕を降ろすなら、なるべく早いに越したことはありません。

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